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『クリイム色の足跡』

細布子が早朝浜辺を歩くのは、そうそう珍しい事ではなかった。

別段何か用事があるというわけではない。ただ朝早く、水平線の向こうに太陽が顔を出すか出さないかという微妙な時刻に起きてしまう時があり、そんな日に細布子は、布団の中に潜り込んで二番煎じの眠り姫を気取ったりはせずに、まだあまり人気のない浜辺を歩くようにしていたのである。

御宿海岸。千葉県は外房の先の方にある海岸である。細布子は小学生の頃、この場所へ引っ越してきた。それからもう六年が経とうとしている。それまで細布子は東京都心に住んでいたから、来たばかりの頃は、海が珍しかった。学校に転校してきてまだその雰囲気に慣れ切らないうちから、細布子ははしゃいでいた。昼間は海岸に遊びに行った。海風に吹かれて、砂浜を走り回った。浜に座り込み、砂の中から輝く虹の真珠色の小さな貝殻を掘り出した。ポケットにいっぱい貝殻を詰め込んで家に帰って、ポケットが砂だらけになったり破れたりしてしまったこともあった。

夜、床に入る前に部屋の電気を消し、布団に入ってじっとしていると、遠くで波の打ち寄せる音が聞こえてきた。越してきた最初のうちはその音が気になって、心が昂ぶって眠れないことも多かった。しかしそのうちに、夜の水平線の彼方の深遠なる闇の深さを見てからは、その音が睡眠という深遠なる幻惑の世界に細布子を導く催眠剤となった。波の音を聞きながらの方が、よく眠れる様な気がするようにさえ、なった。

そんな細布子が早起きをするようになったのは、中学を卒業するようになってからである。中学校の卒業式の日、細布子は緊張していたせいか、未だ太陽も上らぬ早朝から眼が覚めてしまった。時計を見て未だ起きるのには早い時間だということを知って、もう一度眠ろうと思ったが、どうしても眼が冴えて眠れたものではなかった。暫らくは毛布に包まったまま悶々としていたが、どうしても気持ちが昂ぶるばかりなので、いっそのこと起きてしまう事にした。起きて着替えてみると、部屋の中に閉じこもっていたくはなくなったので、細布子は外に出ることにした。その日細布子は、生まれて初めて、誰もいないクリーム色の砂浜を独り占めにする快感を味わったのである。

そのときから細布子は、しばしばまだ太陽も登り切らぬうちから早起きをするようになった。

細布子は珍しく同年代の中では目覚めのよい方であったので、目が覚めるとさっさと布団を跳ね除け、時間が少しでも惜しいという様子で手早く着替えた。細布子はまだ高校生であり、学校へは制服で通っていたが、当然の事ながらこのような時に着るのはTシャツにGパン、その上にジャケットを羽織るだけという身軽な私服である。そして一通りの身支度が整うと二階の自分の部屋から出て、なるたけ大きな音を立てないように軋む階段を降りていって、手早く洗顔を済まし、他の家族を起こさないようにとそっと玄関の扉を開け、外に出て行った。

細布子はほとんど夜更しをしない。だから、別段に朝起きたばかりで眠いということもなく、地平線から出掛かっているであろう太陽の光で、淡くぼかしたグラデーションに染まってゆく縹色の空の清々しさを存分に感じることが出来た。家からは五分も歩けば、すぐ海岸に出る。ぺたぺたとサンダルの音をアスファルトに繰り返しながら、細布子は海岸までゆっくり歩いた。

そのような時間に街灯の立ち並ぶ車道沿いの道を歩いていると、時々この御宿の観光名所の一つである月の砂漠の三日月を象った頭上の街灯の明かりが、ふっと消えることがある。そんな時細布子は、必ず後ろを振り返り、一直線に立ち並ぶ街灯の明かり全てが消えたところを確認した。確認する、というより、ただ規則性を持って並んだ街灯が一斉に消えるのが面白かったのである。 海岸沿いの車道には、棕櫚の木が数本、十分な間隔をもって植えてある。いかにも創り出された南国のイメージ、という訳だが、このような人のいない時分には、夏の間の混雑を知っている者にとっては何処か物寂しげな風情をかもし出す。それぞれの木の根元には、木製の椅子が一脚ずつ、括り付けてあった。細布子はコンクリートの車道から海岸に降りる前には、ほとんど必ずといっていいほどその椅子に座って、水平線にほんの少しだけ顔を覗かせる橙色のオパールのような、眩しい太陽の光に目を細めていた。

棕櫚の立ち並ぶ車道の先には、コンクリートで固められた、朝夕に釣り人が集まるテトラポットの立ち並ぶ桟橋や、細布子が起きるよりももっと早く沖合いに網を引きに出かける漁船が立ち並ぶ、船着場がある。時折そのコンクリートの斜面に漁師達が遠くから細布子の方を見ていることがあった。細布子はそちらの方へはあまり足を伸ばさなかった。細布子が好きで歩くのはコンクリートの上ではなく、砂浜なのである。

しかしその浜辺も、夏の間は朝早くから観光客が歩いていることも多かった。細布子は、そんな浜辺は好きではなかった。浜辺を一人占めしたかったのである。ただずっと続いていくクリーム色の砂浜に、自分の足跡を残していくのが好きだったのである。 だから夏は早起きをしても、浜辺には出なかった。海の傍に住んでいるとはいうものの、細布子は夏が嫌いだった。否、正確に言えば夏という季節を我が物顔に謳歌する人間が嫌いだったのである。

もはや「夏」は一つのファッションであった。流行の服を見につけねばならないという強迫観念と同じような心理からか、実に多くの男女や家族連れが御宿にやって来た。しかし、どうやら海水浴客にとっては、この御宿の浜辺は使い捨ての消耗品と同じもののようであった。だから彼らはやりたい放題やった。海水浴場の付近の学校では、毎年夏休みの前に教員からのとくとくとしたお説教があった。――気軽く海水浴客に誘われてついて行かないように――夜の外出は避けるように――浜辺に出るときは親と一緒に行くように――もう、うんざりであった。

使い捨ての思い出を作る為にこの街にやってくる人間が、砂浜に足跡をつけているのを見ると、細布子は自分の聖域を侵されたような心持になった。だから、細布子は夏の間はなるべく早朝の砂浜散歩をしないようにしていた。細布子にとっては、観光客の活気で賑わう夏は、単に自分の早朝の気分転換を勝手に奪い、小さな海辺の町の静けさを無遠慮に破る、厄介な季節でしかなかったのである。

だから細布子は夏が嫌いだった。

――今年も後一ヶ月ほどで夏が来る。

細布子は憂鬱な気分になったので椅子から立ち上がると、車道と浜辺を隔てている木の柵を行儀悪く乗り越えて、浜辺に降り立った。

夜のうちに満ちた潮が、砂浜のクリーム色と潮の引いたばかりの波打ち際の灰色とのちょうど境目あたりに、海藻などを打ち揚げていた。それは、綺麗な一面の砂浜に所々の彩りを添える装飾品であった。薄青い太陽の光の中でまだ海水に濡れたままで透明に輝いている緑色や小豆色の海藻は、陸地に生えるどのような植物にもない艶を放っていた。緑色の海藻を一つ手にとって、まだ登りきらぬ岬の向こうの、眼を焼き焦がすほどに光り輝く太陽に透かしてみると、高校生の身分ではとても手に入る筈もない翡翠のブローチを手に入れたかのような喜びが満ち溢れて来た。

時には小さな魚が浜に打ちあげられていることもあった。恐らく夜の満ち潮の中で陸地の近くで存分に遊泳しているうちに何時の間にか朝が来て、どんどん退いていく潮に取残されたものであろう。失われた生命に対する一抹の哀れみを感じないわけではなかったが、本来人間よりもデリケートな体内時計を持っている筈の魚の中に、そのようなお惚け者がいるというのは、どちらかといえば滑稽だった。それは近づいて見てみると、まだ顔を出したばかりの太陽の光に照らされて、まるで熟練した細工師の手による銀細工のように艶々と光り輝いているのだ。つい先程までは元気に泳いでいた筈のものだから、まだ生命の余韻が残っており、それが単なる生命の抜けきった一介の抜け殻をかようにも美しく見せているのである。

まだ波が引いたばかりの波打ち際を歩けば、細布子のサンダルの跡がくっきりと残る。しかし海水を吸って重たい灰色の粘土状になっているので、歩を勧める度に地を蹴った飛沫の跡が生乾きのコンクリートの中に立ち入ったように汚らしく残ってしまう。だから細布子は波打ち際を歩くときには、わざわざ打ち寄せる波に少し足を浸すようにして歩いた。そうすれば細布子のサンダルの足跡と地を蹴った飛沫は、波が打ち寄せる度に、窯の中の炎で溶けかかった釉薬のように溶かされ、陶器のような大地に埋もれた曲線美を描き出し、水を含んだ砂の色が鉄釉のように染まっていくのである。

海からは、波の先から生じた白い泡が、ピアニストの鍵盤を叩く指が段々と平行移動して音を紡ぎ出してゆくように、平たく広がって次第に別の波と一体となり、潮騒の音色と共に打ち寄せてくる。波が細布子の足元に到着する頃には、奏でる音楽は終幕を向かえ、生命の灯が次第に消えてゆくように波は小さくなり、朝焼けの金色の太陽が反射する海の鏡面に白い泡の名残を漂わせて溶け込んでゆく。

ごんごんと耳を小さく圧迫する低音は、沖を滑ってゆく漁船が立てるものである。その低音の合間を、砂浜の上を小さく飛廻る小鳥達の甲高い声が鋭く、小さく、埋めてゆく。

太陽はもう水平線の向こうに半分以上顔を覗かせていた。空は光に満ち始めている。海を越えて来て耳元を吹きぬけ、潮の香りを後方へと絶え間無く運んでいく風に導かれるようにして細布子がふと振り返ると、クリーム色の足跡がいつもの様に点々と砂浜に続いていた。

――今はまだ、私だけのものだから。

そして細布子は、また足跡を残しながら歩き続けてゆく。

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