Smoke Stings Studio > 文芸作品 > 叙情小説 > 『蜻蛉時録』

『蜻蛉時録』

昨晩手酌でウイスキーを三杯も飲んでしまったせいか、今朝はいつもの時刻に起きることが出来なかった。

今日は特に仕事という仕事もなく、妻はそれを心得ていて、十時過ぎになるまで私を起こしに来なかった。起こされて時計を見たら、十時二十分だった。暫くの間は、一向に覚めやらぬ脳髄を持て余し、布団の上で呆然として、周囲に張り巡らされた蚊帳の網目を眺めていた。気が付いたら、何とも愚にもつかない時間を過ごしていた。無性に暑かった。たとえ酒を飲んでいたとはいえ、よくもあのような熱気の中で熟睡できたものだと思う。あまりに暑かったので、昨夜は雨戸を閉めず、外の風が吹き込んでくるままにして寝た。

昼食の後、書斎で原稿用紙に向かって『暁星(*注)』の連載を書こうとしたが、一向にはかどらぬ。ペンを持ってはみたものの、それは殆ど文字を紡ぎ出さずに、単に手持ち無沙汰を解消する遊び道具と化してしまった。そうしているうちに、妻が息抜きにと、西瓜を切って持ってきた。私は縁側から、茫漠と青空に広がっている威圧的な入道雲を眺めた。じわじわと鳴く油蝉の声を聞きながら、瑞々しい深紅の果実を味わった。あの空の様子だと、やがて夕立が降るのは必須であろう。私は遂に原稿を書くのを諦めた。諦めて、『草堂詩集(**注)』を読み始めた。

さて、ここからが今日の日記の本番である。何故、いつも就寝前に日記を書いている私が、今日に限って十六時十八分などという半端な時間にこの日記帳に筆を走らせているのか。

つい十分ほど前、私が『草堂詩集』に一息ついて、畳に寝転がっていると、眠気が身体全体を包み込み始めた。昨夜あれほど寝ておいて、まだ眠くなるのかと、朦朧とした意識の中で自分に少々呆れ返っていたところ、半分閉じかかった瞼で狭められた視界一杯に広がる、天井の木目を出鱈目になぞって、ふらふらと何か小さなものが舞っていた。私は眠りに溶けかかった意識を無理やり覚醒させた。

それは蜉蝣(かげろう)だった。あらためて確りと見てみると、それは淡黄色の身体と薄い透き羽を持った、実に小さい生き物だ。辛うじて現(うつつ)に繋ぎ止められた意識野に、「邯鄲の夢」という言葉が浮かんできた。

蜉蝣の成虫の生命は当に邯鄲の夢。蜉蝣は幼年期を蟻地獄として砂の擂り鉢の中で過ごす。偶然に近くを通りかかった蟻が、誤ってこの鉢の中に落ち込むのをじっと待ち、さらさらと落ちる砂に足を滑らせる蟻の体液を非情にも吸い取って生命を繋ぐ。小さく柔らかくも無骨な姿とその残酷さに、嫌悪感さえ覚える。

しかし、その蟻地獄という非情な幼年期があるからこそ、危いほどに繊細な蜉蝣が生まれる。非情の業に生まれついても、その行き付く所はただ水のみを生命の糧として僅か三日を生き延びる、薄羽根の生命である。どのような織師も、蜉蝣の羽根ほどに繊細な羽衣を作ることは叶わぬだろう。

ずっと見ていると、蜉蝣は天井から障子のところまで降りてきて、開け放たれた障子に、はたはたとぶつかった。蜉蝣は人間のように室(むろ)の中で生きるのではなく、青空の下で生きるべき生命だ。蜉蝣が縁側からこの部屋を出て、外の世界へ戻れるようにと願った。

この時間になるともう蚊が入り込んでくる。いつもなら蚊よけに蚊取り線香でも焚くのだが、蜉蝣が線香の毒気に当てられては嫌だったから、私は蚊帳を吊ることにした。つくづく人間とは自分勝手な生き物である。蚊を寄付けぬ為なら何の躊躇いも無く線香を焚くであろうに。私は寝室から来客用の蚊帳を持ち出し、書斎に吊った。蚊帳を吊っているときに蜉蝣は一旦障子から離れてまたふらふらと舞い出したが、暫らくすると天井に止まった。まだこの部屋の中に留まるつもりらしい。いよいよ主人の心遣いを察しない客人だ。私は吊った蚊帳の中に『草堂詩集』と小卓とこの日記帳を持ち込んで、蜉蝣がこの狭い部屋の中から外の世界へと出て行く様を記録しようと思う。現在十六時五十三分。

17:47
案の定雨が降り始めた。しかしこの季節の雨のことである。ひとしきり激しいのを叩き付けた後は、さっさと上がってしまった。それまで強烈な太陽に照りつけられていた庭は天からの水で潤い、土の香りがふんわりと部屋の中まで流れてきた。外出中でさえなければ、この季節の通り雨も風情があって好い。私は白雨の後のこの香りが非常に気に入っている。

18:34
外は段々太陽が沈みつつあり、薄らと紅に染まりつつあった。晩蝉の声が先ほどの雨に湿気った空気を伝って、遠くより響いてくる。油蝉の声は耳を打つが、晩蝉の声は胸を打つ。

蜉蝣は天井の隅でじっとしている。蚊帳で少々見にくいが、時たま開け放った窓から吹き込む風で僅かに羽が震えているようだ。若しかして優曇華の花でも生みはせぬかと、決してありえぬことを夢想してみた。これは私の悪い癖である。

19:49
夕食を済ませた後、書斎に戻ってくると、蜉蝣はまだ部屋の中にいる。天井板の合わせ目にじっと止まっている。外は太陽が沈みかけて、縹(はなだ)色に変わりつつある。

妻に蜉蝣の話をしたら、窓なんか開け放したら蚊が入り込んできて大変だけど、蚊帳を吊ったのは貴方にしては上出来ね、と言った。つまりは、蜉蝣を外に出してやりたいという私の心を分かってくれたようだ。

私は蚊帳の中に入って、薄青い網目に和らげられた電灯の光の中で夕刊を読み始めることにしよう。

20:24
太陽は沈み、外はもう藍一色である。庭の植木が濃藍色となって、照らすもの無き空を背景にして色濃く繁っている。蜉蝣はまだ同じ天井の合わせ目に微動だにせず止まっている。

もうずっと同じ所に止まって二時間以上になる。これでは何時まで経っても埒があかない。蜉蝣は光を好むらしいから、私は電気スタンドを蚊帳の外に出し、明かりを付けた。そして部屋の電気を消して、蜉蝣が電気スタンドに止まるように仕向けようとした。蚊帳の外にはもう既に七八匹の蚊がふわりと止まっているのが、小さな電球の明かりの中に見えた。天井に止まった蜉蝣は、小さな光が辛うじて届くくらいの場所で、薄黄色に淡く照らされていた。それが為に、よりいっそう蜉蝣は微弱で神秘的に見えた。

20:52
真っ暗闇の中、じっと電気スタンドの明かりのみを頼りに考え事をしていると、遂に蜉蝣が動き出したようだ。蚊帳の柔らかい壁を薄青く照らしていた灯火の円が、細長い影に遮られた。蜉蝣がスタンドの傘に止まり、繊細な身体で光を遮ったのである。間近から強い白熱球で照らされた羽根は、透かされた上布のようによりいっそうの透明感を増し、針の先で突いたほどの小さな眼と、繊維一筋ほどの触覚が静かに息づいて、蜉蝣はふるふると足場を求めて動いていた。

しかしそのままでは、蜉蝣は白熱球の熱に焼かれてしまう。蚊帳の下からそろそろと手を出して、私は電気スタンドのスイッチを切った。途端に、私の廻りは真っ暗になり、瞬きをする瞼の裏に、電球の残影が焼き付くのみとなった。少々乱暴だが、私は蜉蝣を飛び立たせるために、蜉蝣が下敷きにならないような角度で、スタンドを押して倒した。唯一の光源だった電気スタンドを消してしまった為、私は本当に蜉蝣が庭に出て行ったのかを確かめることは出来なかったが、蜉蝣が飛び立ったのは確信できた。電気を付けるとまた蜉蝣が引き寄せられてしまうのではないかと思ったから、そのまま電気を点けずにもぞもぞと真暗闇の中を蚊帳の中から這い出て書斎を後にすると、私は台所に来て、今この日記を書いている。

今夜は酒を飲まずとも、心安く眠れそうであった。これから私は妻の待つ寝室へと向かおうと思う。

ふらふらと 浮世に遊ぶ 蜉蝣を あなめづらしやと 見る蚊帳の中

*注
 この作品は、日記の体裁をとっているフィクションであり、『暁星』というのは架空の文学雑誌の誌名。

**注
 江戸時代の禅僧、良寛の詩集。

    叙情小説一覧   次の作品>>
since 2003.4.1. : copyright 2008 (c) all rights reserved : Naruse Takanori @ Ace Art Academy エースアートアカデミー