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『終着駅』

もう少しで私の旅は終焉を迎える。私は最終列車を待ってプラットホームに佇んでいた。

周囲より迫り来る黒い闇を遠ざけるように縦横に組まれた天井の鉄骨の下で静かに灯っている蛍光灯の光は危げで、辛うじて私という存在を光の射す世界に繋ぎ止めている。よく耳を澄ませば、電灯は低く、耳元で羽ばたく甲虫の羽音のような音を発している。

機械的な女の声で、列車到着のアナウンスがある。非感情的で抑揚の無いその声に重なって、駅員の次の列車が最終であることを告げた。この列車に乗り遅れたら帰れなくなるのだ。

線路を揺らして、規則的な音と共にペンキ塗りの鉄の箱が線路を滑って来た。目の前を過ぎ去ってゆく車内を映した硝子窓の速度がどんどんゆっくりになり、耳障りで甲高い金属擦過音と共に列車は停車した。

列車に乗り込もうとしてふと顔を上げると、列車の窓から漏れる黄色い光を透かして、覆い被さる駅の屋根と列車の隙間から降り注ぐ雨が、細長い針のように光り輝いている。空気の漏れる音と共に扉が左右に開き、緊張感が列車に乗り込もうとする私の背筋を這い上がってきた。

しかし列車に乗り込んだ途端、背筋を這い上がった緊張感はたちまち消えて行った。車内にいるのは、私一人だった。銀色のパイプで区切られた空虚な空間が座席の上には広がっている。

私は失望した。広大無辺の空間ならともかく、このような閉鎖された空間は満たされるべきものだ。どうせ満員電車だからと諦めてしまえば、人でぎゅうぎゅう詰めになっているほうがよい。満員電車では、少しでも自分の占める場所を確保しようと不本意に緊張していなければならないが、しかしこの満たすもののない、切り取られた空虚に締めつけられるよりは幾らかましである。この、深夜のがら空きの電車に満たされた虚無感は何だろう。この露骨で痛々しい罪悪感や疲労感は何であろう。

これ以上この場所にいることが耐え難かった。私は無理矢理視線を窓の外に向けた。

やはり雨は、最後まで止まないようだ。漆黒を映す硝子窓に、雨滴の描き出す繊細微弱な斜線模様が映し出されている。車内の光を受けてその雨絣は艶々と透明に輝き、疾走する列車が切る風を受けて震えていた。その向こうに広がるのは、何処までも続くとも知れぬ闇である。昼間は良い。窓の外に広がる景色は、遠くまで見渡すことが出来るからだ。射し込む光が座席に明暗をつける。しかし、夜はどうだ。夜は真っ暗な中に輝く街の光に、遠近感は無い。ただ、都会に特有の魂の大河が遥か遠くの存在を予感させるのみである。闇の中には硝子を通して、私の似姿が映っている。闇の向こうには、もう一人の私が座っている。

――嗚呼、向こう側にもうひとつの別の世界が存在する。

向い合せに立てられた鏡の中からは悪魔が生まれるという。ならば、列車の両側に存在する硝子に映る姿から生まれてくるのは、私という悪魔に他ならない。レールの上を走る車輪の音が空虚を満たした空間にこだまする。それは悪魔を列車内に呼び出す呪文である。闇の中の私という空間の悪魔と、此拠で座っている私と、どちらがより現実味を帯びて存在するものなのか、私は暗闇の中に映る自分を見詰めるうちに分からなくなってきた。

もし。もしあの暗闇に映っている私が、私ではない、別の世界の存在だとしたら。私は怖くて暗闇の中に映った自分の似姿から目が離せなかった。嗚呼、彼方の世界の私もじっと此方の世界を見つめている。もし、もし私があの像から眼を逸らした時に、私とは別の動きをとり始めたら…。如何すればよいというのだ。これでは、私はずっと彼方の世界から目が離せないではないか。

――あれが私のドッペルゲンガーだ。

呼吸は次第に浅くなり、額には汗が浮かんできた。巨大な悪魔の手で胸を抉られたような気分になった。私は自分の似姿を見詰めたまま動けなくなってしまった。思えば、ずっとそうだったような気がする。

ドッペルゲンガーを見た人間は必ず死ぬという言い伝えが私の脳裏を過った。しかし、それでも私はあの硝子の向こうから此方をじっと見詰めている暗闇の中のドッペルゲンガーから眼を逸らすことは出来なかった。

悪魔が私の脳裏を掻き乱した。ドッペルゲンガーを見た私はこのまま死ぬ運命に在るのか。

ずっと脂汗を浮かべたまま硝子の向こうを見詰める私が、そこから眼を逸らすには何かきっかけが必要だった。鉄の壁と硝子によって外の世界と隔絶された列車には必ず目的地がある。此の精神の空洞が何処に到着する為に走っていたのかを、私は先刻承知済みであった。やがて列車は終着駅に到着した。鉄骨に囲まれた駅の蛍光灯の光が、ドッペルゲンガーの姿を薄れさせ、掻き消した。私はその時になってやっと、硝子の向こうを見詰めるのを止められた。

――嗚呼、とうとう私の旅は終わってしまった。

結局誰も私の似姿から眼を逸らさせてくれる人間は最後まで出てこなかった。私は今にも営業を終えようとしている列車から降りなければならなかった。現実世界の規則に押されるように、私はドッペルゲンガーの影を振切った。

プラットフォームには何故か乗客は一人もいなかった。たった一人で私は階段を降り、改札へ向かった。こつこつという私の靴音が、線路の下を貫いて走る地下通路の壁に反響した。安っぽいペンキ塗りの壁が薄暗く照らす蛍光灯の光をてらてらと反射し、冷たい銀色の手摺が私の姿を歪めて映し出していた。私は機械化され自動化された無人の改札を、小さな切符を飲み込む虚ろな響きと共に抜けた。

私は駅の前にしばし佇み、空を見上げた。雨は何時の間にか止んでいた。黒々と空を覆う闇雲を貫いて輝く白金の月が見えた。都会の夜は、澱んだ空気に遮られて星が見えない分だけ、月が水底に沈んだ鏡のように明々と光り輝く。頭上では電線が鳴っていた。細長い電柱に、やはり細長い蛍光灯が少しも温かみのない白い光を放っていた。私はふと、消灯した店のショーウィンドウの暗がりの中に、自分の似姿が闇に染められて立っているのを見た。

…自分の似姿から逃れられる術は無いのだ。

(旅の終焉)

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