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『名残蝉』

青く晴れ渡った空が、秋に差し掛かった夏の空気をとどめていた。

静かな空気が停滞する斎場である。微かに読経の声が流れてくるが、その声は忙しく鳴きたてる油蝉の声に掻き消される。しかし時はもう夏の終わり、油蝉の声とて一頃の勢いある夕立のような激しさを失い、どちらかといえば山間を流れる清水の音のように弱々しい。

喪服に身を包んだ黒い行列が、陽の光を照り返す白い砂利の上を、長く地を這う影を伴って、しずしずと進んで行く。小砂利を踏みしめる音がみしみしとに耳に伝わる。遺影を胸に掲げた、先頭を行く老婦人の神妙な面持ち。次に行くのは白木の箱を抱えた青年である。喪服と影と遺影の黒。白木の箱と涙を拭うハンカチの白。青い空と生い茂る緑に彩られた季節の中で、しばしモノクロームの世界が展開する。やはり喪服に身を包み、開け放たれた縁側からその光景を眺めていた祥子は、太陽の光の眩しさに潤みかかった目をぱちぱちと瞬いた。

今日、祥子がここに来たのは祖母の葬式の為であった。昨日通夜を済ませ、今日は朝から告別式だった。つい先程までは、祥子自身もモノクロームの葬列の一部を成していたのである。

祥子は縁側に一番近い席に座り、久し振りに会う親戚達ともあまり言葉を交わすこともなく、一人考え事をしながら黙々と目の前の漆塗りの弁当箱に入った精進落としの煮〆を箸で持て余していた。

つい数日前に、祥子の祖母は不可思議な死を遂げた。

祥子の祖母は、五十年近く連れ添った夫が亡くなった後、福島県の郡山市で一人で暮らしていた。少しずつ体が弱っていったとはいうものの、七十五歳という年齢にしては、背筋もぴんと伸びて気丈そうな歩き方をする矍鑠たるお祖母ちゃんであった。六年前に連れ合いを亡くした時も、落ち込んで急に老け込んだりする事も無かった。もちろんそれは、お祖母ちゃんが自分の夫を愛していなかったということではなく、自分が妻よりも早世したということで妻が老け込んでしまう事を、戦後を生き抜き五十年近く連れ添った夫が少しも望みはしないだろうという事を知っていたからである。

祥子の両親は東京に出てきて一緒に暮らしましょうと何回か提案してはみたのだが、祖母は長年住み慣れた地を離れたくはないといって、そのまま郡山に残った。何故だかは解らないが、祖母は頑なに自分一人で暮らしていくことを望んでいたのである。

祥子達は東京、お祖母ちゃんは郡山と住いが遠く離れていたということもあって、祥子の家族とお祖母ちゃんが会うのは年に数回だった。それも、祥子達が郡山のお祖母ちゃんのところへ泊まりに行くのが殆どで、お祖母ちゃんの方から東京へやって来ることは滅多に無かった。

その祖母が、どうやら郡山のマンションには居ないらしいと連絡を受けたのが、一週間ほど前のことである。

同じマンションで親しくしている隣の奥さんが、いつもは居る筈の時間に何回か呼び鈴を鳴らしてみても応答が無い。夕餉の時間帯になっても、電灯が灯っている様子も無い。不審に思って管理人を通して鍵を開けてもらったところ、部屋は蛻の殻だったそうである。普段から家を空けるときは必ず隣に後を頼んでから出掛ける律儀なお祖母ちゃんだっただけに、隣の奥さんは心配して此方へ連絡してきたのである。

祥子たちは心当たりの親戚などに八方連絡を尽してみたが、依然として行方はわからなかった。失踪届を提出し、実の娘である祥子の母親がすぐにも郡山へ向かおうという事になった。

そして四日前――母親が郡山への旅支度をしている途中に――お祖母ちゃんが発見されたのである。

それは東京行きの特急列車の中だった。

列車が東京駅についた時には、お祖母ちゃんは既に息を引き取っていた。当初は乗客や駅員の誰もが、お祖母ちゃんはただ眠っているだけであると思ったらしい。

窓際の座席に行儀よく腰掛け、眼を閉じて、まるで楽しい夢を見ているかのように、ほんの少しだけ微笑んでいる老人がまさか死んでいるなどと、だれが考えただろう。終点に到着して、全ての乗客が下りたかどうかを確認していた車掌が、車内を見回っていて初めて気づいたそうである。鞄の中には真白な封筒に祥子達の住所と電話番号が書かれた紙が入っていたと。それを見て、鉄道警察は此方に電話で知らせてきたのだという。

「正直言って、お祖母ちゃんが忽然と消えてしまったというのには、閉口したよ。しかも、あんなところで、しかも息を引き取った状態で見つかるとは。」

隣の席に座っている父がそう言うのが、祥子の耳に入ってきた。

「お祖母ちゃん、やっぱりさみしかったのかな」

それが自分に対して話しかけられた言葉かどうかは定かではなかったが、祥子は相槌をうった。

「なんか可哀想なことしたね。」

しかし、その言葉を発した本人である祥子自身の心の中には、何か釈然としないものが残ったままだった。

何故お祖母ちゃんは死に際して微笑んでいたのだろうか。何故此方に何の連絡も無しに東京に出て来ようとしたのだろうか。何故いつも律儀なお祖母ちゃんが今回に限って隣人に家を空ける旨を伝えなかったのであろうか。

様々な事が謎に包まれたままだった。祥子達の家の住所と電話番号の書かれた紙と不可解な謎の他には、お祖母ちゃんは何も残しはしなかったのである。

一人悄然と考えにふける祥子の視界の中に、短いジェッという音とともに縁側に何か小さな黒いものが飛び入ってきた。祥子は吃驚して身体を緊張に強張らせ、小さく叫び声を上げてその飛来してきたものから身を避けようとした。

それは一匹の油蝉だった。

茶色く乾いた羽をしきりにばたつかせ、板張りの木目をその背中でじりじりと出鱈目になぞりながら、蝉は矢継ぎ早に苦しむような鳴き声を上げた。それは夏の盛りに見られるような、煩いほどに元気のいい鳴き声ではなく、夏も終わりに差し掛かった、弱々しく絞り出すような声であった。

蝉の苦悶の声に会話を中断され、その場にいたほぼ全員がそちらに視線を移した。

祥子はというと、油蝉の苦悶の声には耳を塞ぎたくなっていた。

夏の盛りの間にはあれほど活気のあった鳴き声が、集団のものでなくなってしまうと、あるいは死ぬ間際のものになってしまうと、こんなにも哀れに聞こえるものなのか。それは、精一杯派手に騒いでいた浮つせ身の末路を、予感させるのだった。

蝉は騒々しい、しかし哀れな鳴き声と共に、羽根をばたつかせ、縁側の上をひとしきり暴れまわっていたが、やがて唐突に起き直り、短い一鳴きを後に残して飛び立っていった。その飛び方は、もはや夏の盛りの間に見られるような力強いものではなかった。その軌道に緩やかな弧を描いて蛇行した、日差しを透かした油紙のように、橙色に輝く羽根がやけに目に付く、ゆっくりとした弱々しい飛び方だった。

思いも寄らぬ訪問客に会話を中断されたものの、その場にいた弔問客のほぼ全員は、まるで何も無かったようにまたそれぞれの会話を再開した。

祥子を除いては。

油蝉の飛び去った彼方を凝然と見詰める祥子の心の中には、殆ど忘れかけていた昔の光景が、おぼろげに浮かびつつあったのである。

それは祥子がまだ幼稚園に入ったばかりの頃、家族と一緒に信州のお祖母ちゃんの生家を訪れた時のことであった。

それは、祥子が覚えている旅の記憶の中で、最も古いものである。生まれて初めての旅、というわけではなかったのかもしれない。しかし、少なくとも、物心ついてからの初めての旅であったことには間違いないであろう。

両親とともに信州の山奥に数日間を過ごすこととなった都会育ちの祥子は、澄渡った山の涼気を存分に楽しむこととなった。

肌を白く光り輝かせる昼間の太陽の下では、木々の間で様々な蝉の声が遠近に爽快な自己主張を奏で、風に靡く枯色の薄の上を赤蜻蛉が我が物顔にすいすい飛び廻り、日の光を透かして真白に輝く尾花の上に気紛れに一時の休息をとっていた。時折ひらひらと風に翻弄される木の葉のように飛んでくる揚羽蝶は道端の花に羽を休め、青色の筋に彩られた貴婦人の舞踏会のような衣装を見せびらかした。どちらの方向を向いても、見渡す限りに聳える山々は生い茂る緑の生命力に包まれ、空にもくもくと盛り上がる真白な入道雲と意地を張り合っていた。山の上は東京の排気ガスに包まれた纏わりつくような不快な暑さとは無縁で、昼間でも涼しく過ごし易かった。

暮方には、山の端に顔を隠しつつある太陽は真赤に紅潮し、来るべき夜の予感に涼しさを含んだ風が汗で火照った肌を醒まし、生い茂る木々と土の香りをそっと運んできた。遠く余韻を残す晩蝉の声は幾重にも重なり合って、柿色に染まりゆく緑の山々の返景を彩っていた。日が沈んで空が一面の群青色から徐々に藍色となり、そして全てを飲み込む一面の闇が訪れる頃には、数々の鈴虫や蟋蟀が細い草の葉に僅かな月光を受けて輝く露の下で、闇に透き通る静けさにさり気無く繊細な月想曲を奏でていた。

都会育ちの祥子にとっては、それら全てが珍しかった。

祥子にとっての空は、いつも高いコンクリートの建物に囲まれている、狭苦しいものであった。祥子にとっての大きな音とは、自動車や、電車の音であった。

しかしこの場所では、空は広く、青く、美しく、限りなく祥子の頭上に広がっていた。遠くの川の流れを静かに伝えてくる山の空気を乱すものは、一つとしてなかった。時折通る車のエンジンの音でさえ、それはやたらに耳をかき回す不快な音ではなく、むしろ脈打つ鼓動が大きくなって伝わってくるようにさえ、思えたのである。

祥子は山にいる間中、好んで山道を歩き回り、近くの川に出かけ、いつかは都会に戻らなければならない限られた夏の数日を、楽しく過ごしていた。

そんなある日、当時まだ十分に元気だったお祖母ちゃんと一緒に祥子は、冬はスキー場として使われている山腹の裾の斜面で遊んでいた。

冬には雪で真白に覆われるスキー場も、夏には沢山の生命が様々な世界を織り成している、一面の草むらである。足を踏み入れれば小さな飛蝗が次々と飛び出し、透き羽根を広げて逃げていく。蜻蛉が縦横に飛び巡り、時々祥子の頭上で静かに滞空する。祥子は足元から飛びだしていく飛蝗が面白くて、わざわざ一歩一歩、大袈裟に踏み出すように歩いた。

お祖母ちゃんはもう齢六十を越しているというのに、途中で拾った木の枝を杖代わりの頼りにして、元気に祥子と一緒に途中まで山腹を登った。しかし到底斜面の頂上まで登りきる気にはなれず、中ほどで登るのを止め、一面に草の布かれている斜面に腰を下ろした。一方の祥子も登り始めは元気だったものの、さすがに足がくたびれてきたので、お祖母ちゃんの横に腰を下ろした。

斜面を上から下までなぞっているリフトの鋼線は、空を真直ぐにくっきりと区切っていた。その鋼線を目で辿っていくと、山腹の遥か上の方には、物見台やらロッジやらが見えた。しかしこの季節にそれらのものが使われている様子は無く、何処か打ち捨てられた建物のような、閑散とした雰囲気があった。羽を全く動かさずに優雅に風に乗っている鳶の姿が、両側を深緑の林に挟まれてせり上がってゆく斜面の上空を、悠々と横切っていった。

そのまま風が心地好く汗を乾かしてゆくのに任せていると、膝を抱えていた祥子の足元に、何かが空から落ちてきた。

それは死にかけた蝉であった。壊れかけた機械のように途切れ途切れに鳴きながら、草の絨毯の上を仰向けに、丸々と太った腹を見せ、その茶色い羽を動かして頻りに暴れていた。

祥子は唐突に表れた蝉の様子に一瞬怯えた様子を見せたものの、無邪気な好奇心のほうが勝って、もっとよく見ようと、草叢の陰に埋もれている蝉に向かって身を乗り出した。得体の知れないものに対する恐怖感はあったものの、祥子は恐る恐る、草の間で暴れまわる蝉に手を伸ばそうとした。

途端、横からお祖母ちゃんが優しく言った。

「祥子ちゃん、その蝉さんに手を出したら駄目よ。蝉さんはね、六年間もの間ずっと、お日さまの当たらない暗い土の中で暮らしていたのよ。そしてやっと光の中に出てきたと思うと、たった一週間でその命を終えるの。そうね、六年間だから、丁度祥子ちゃんが生まれたのと同じ位の年にあの蝉さんも生まれたのね。

「あの蝉さんは、短い一週間をお日さまの光の中を精一杯生きて、生きて、生き抜いて、そして今やっとその命を終えようとしているのよ。弱ってはいるけど、まだ精一杯生きている最中なの。そのままにしておいてあげて。」

祥子は伸ばしかけた手を止めて、そのままお祖母ちゃんの方を見た。

「蝉さん、ずっと暗いところにいるなんて可哀想。」

「蝉さんはね、ずっと土の中で暮していたからといって、自分の事を不幸だと思ったりはしないのよ。あの蝉さんはね、精一杯生きたの。精一杯生きるって素晴らしい事よ。だからこの世の中で精一杯生きた生きものは、本当は皆幸せなの。でもね、不思議なことに人間だけが、大人になると、自分のことを幸せだとは思わないようになってしまうの。そして皆、幸せになろうとして幸せを求めれば求めるほど、大抵は辛い思いをするのよ。」

お祖母ちゃんの骨ばった、しかし温かい手が祥子の頭を撫ぜた。

「祥子ちゃんの『祥』は、『幸せ』という意味につながっているのよ。だからね、祥子ちゃんは幸せに生きようとして辛い思いをするのじゃなくて、生きていて幸せだと思えるようにして頂戴ね。」

未だ小学生だった祥子にその言葉の本当の意味が分かる筈もなかった。ただ、自分の名が「しあわせ」という意味なのだとその時初めて知ったのである。祥子は特に言うべき言葉も見つからず、ただ小さく肯いた。

遥か空の上に、白い雲が風に流されてゆっくりと形を変えていた。蜻蛉が飛び、その真直ぐな軌道で空を切り取っていた。お祖母ちゃんは頭を撫でていた手を下ろすと、呟いた。

「もうすぐ秋が来るんだねえ。」

蝉が飛び立って、塀際に繁った木の葉に消えていくまでの短い時間の間であったが、祥子はその光景をいまや鮮烈に思い出した。

――あの時、お祖母ちゃんが本当に言いたかった事は何なのだろう。精一杯生きているものは皆幸せだという事はどういう事なのだろう。

祥子は、お祖母ちゃんが何故列車の中で息を引き取ったかが分かるような気がしてきた。

お祖母ちゃんは、病院のベッドに横たわって真っ白い天井を見詰めながら静かに最後を迎えるよりも、病に体を蝕まれながらも最後まで精一杯生きるという、あの日見た蝉のように、生き物としての、そして彼女自身にとっては最後の自由を求めていたのではないだろうか。座席に座って車窓を過ぎ行く景色を眺めながら、精一杯生きている自分に生命としての誇りを感じて優しく微笑んでいたのではないだろうか。

祥子は自分が、そして両親さえもが間違っていたことを悟った。あんな言葉を言ったお祖母ちゃんが、後悔して亡くなったなどという事はありえないのだ。

確かに、他の人間から見ればベッドの上ではなく、列車の中で息を引き取るなどという事は愚の骨頂なのかもしれない。しかし、少なくともお祖母ちゃんは最後の瞬間まで、精一杯生きていたのだ。そしてお祖母ちゃんにとって、それが七十年以上もかけてやっと手に入れた最上の幸福だったのだ。

――お祖母ちゃんは最後まで幸せだったに違いない。

何時の間にかまた聞こえ始めたお経の声をすり抜けて、夏の名残の油蝉が鳴く声が、遠くに聞こえてきた。祥子の白い頬を一筋の涙が伝った。祥子はその涙を拭こうともせずに、蝉が飛んでいった照りつける日差しの中をずっと見詰めていた。

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