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『煙雨の獄』

降り続く雨は矢張り止まなかった。否、それは雨というよりは煙雨であろう。冷たく細かい霧の繊細なレースのカーテンを通して薄らと、疎らな民家の背後に聳える山並みが見えた。目の前は一面の田園風景で、水を張っただけの田圃が広がっている。雨に降られて微かに波立ってはいるというものの、未だ苗を植えられていない田圃は、透明な水の下に光り輝く泥の敷き詰められた鏡面である。水をふんだんに吸った泥は、幾重にも張り巡らされた煙る雨のカーテンに遮られた淡い太陽の光を受けて、艶やかに煌いていた。つまりは、透明な硝子の片面に銀を貼ったものが鏡なのである。

木々の緑は、優しく降り注ぐ雨の中でこそ映える。私は薄い乳白色のカーテンを通して山の緑を見たときに、生まれてはじめてそのことに気付いた。雨の日の緑には艶がある。例えば晴れ澄み渡る空気の中で、照らす太陽の光を緑葉の傘で遮り、木漏れ日によって私の心を切裂く緑は、此の雨中の緑に比べると、乾いている。艶に欠けている。そんな簡単な事に気付くのに、私は何十年という時を費やさねばならなかったのか。

空を見上げてみれば、殆ど手の届くくらいの低さに薄く微かに棚引く真白な雲が田圃の鏡面を蓋っていた。私は畦道に立ったまま、その生クリームを浮かべたような真白な雲を見ていた。こうしてみると、空に浮かぶ雲は真白な天蓋である。艶やかな緑色の山々にかかる雲は、まるで火山から噴出す煙の如くである。雲は山から生じるという伝説にも肯ける。しかし火山から生じるのは熱い蒸気であり、あの山々から吹き上げるのは此の煙雨に咽ぶ、冷たい蒸気である。周囲に聳える山々に、白灰色の濃厚な雲が重く圧し掛かっている。

雲に霞む山の中腹には、送電線の鉄塔が白い靄の中にくっきりとした輪郭を以って、冷たくひっそりと立ち尽くしていた。生命の中に立ち尽くす、完全なる冷たい無機。獄の道標。

私はあの冷たい鉄塔に憬れた。鉄塔は何も考えることが無い。唯其処に建っているだけである。それが羨ましい。私はもう、何も考えたくは無い。何も感じたくは無い。乳白色の靄の中をくっきりと貫いて、何も考えることなく立っているのもそんなに悪いことではないだろう。

苦悩は心から生じる。周囲を取り巻く世事の中を、他だ飄々と生きる事の叶わぬは、人間の業である。畜生の世界を見てみるがよい。畜生は無心に、ただ生きる為だけに自らの餌として生命を奪う。罪悪観を感じながら他の生命を殺すことはない。そのことに何の疑問も感じることはない。しかしそこに人間は罪の意識を感じた。生命を奪うことを残酷だと感じる感情を持った。そして苦しみは生じた。

全ての生命は生きていくには最低限、他の生命を奪うことが必要になってくる。畜生は何も知らぬまま、生きるために生命を奪う。その罪悪を知らぬを人間は侮蔑し、「畜生」と呼ぶ。しかし人間は生命に重きを置き、生命を奪うということ罪悪を感じる。だから奪ってもよい生命と奪ってはいけない生命との間に線引きせざるを得ない。菜食主義者がもし生命を大切にしたいという理由でその信念を貫いているのなら、それは同じ生命の間に、勝手に動物と植物という線引きをして満足している人間の欺瞞である。

――もし感じる心というものが無かったら。

もしも畜生のように考えるという事がなければ、私の心はこれほど荒れはしなかったのではないだろうか。自分が罪深い存在であると気付いてしまった後には、それを受け入れてしまうしか、荒れ果てた心の空洞を埋める道はないのだろうか。苦悩とは、人間の感じる心が、自分自身を受け入れられぬときに生じるのである。

雨霧の静寂を無遠慮に押し分けて、がさり、と道脇の草叢が音を立てた。足元を見下ろした私の視界に、艶やかな雑草の中に埋もれた不恰好な蝦蟇の醜い姿が入り込んできた。蝦蟇はそのまま、膨れ上がった放埓な身体をのそのそと、雨に濡れて重油のような光沢を放つコンクリートの上に運んだ。

蝦蟇がゆっくりと私の足元を通り過ぎた。そしてコンクリートの道の中程で止まると、そのままの姿勢で暫くじっとしていた。

蝦蟇は何も考えたりはしない。ただ私の足元に、まるで小さな関取の様にどっしりと構え、そのままじっと動かずに居る。頬の辺りが呼吸に合わせてひくひくと膨らむ。蝦蟇の黒真珠のような眼が何を見ているのかなど、私は知ることは出来ぬ。もしかしたら私のことなど微塵も気にしていないのかもしれない。ただ雨に体の濡れるに任せ、滔滔たる時の流の中を悠然と、構えている。

それに対して私の心は、荒んでいる。荒廃しきっている。何かを考えれば考えるほど心の中の空洞は大きくなってゆく。空気を入れ過ぎた風船は割れるのが必然である。膨らみすぎた心はどうなのであろうか。

その空洞を淡い霧の煙雨がじりじりと満たしてゆく。益々自分の心が見え難くなってゆく。静けさは拷問であった。空気を震わせるものが何も無い此の世界は、地獄であった。静寂が鼓膜を刺し貫く。冷たい蒸気が瞳を濁らせる。鏡面が心を映し出す。自分の姿を直視することが、こんなに苦痛だとは思っても見なかった。

蝦蟇は私などに注意を払うこともなく、そのまま対岸の草叢へとのそのそ入って行こうとした。私は思わず一歩踏み出した。蝦蟇は私の靴底がコンクリートを擦る音にはじめて反応し、その力強い後足で跳躍し、草叢の中に飛び込んだ。蝦蟇は出現してきたときと同じように、無遠慮に消えてしまった。後には冷たいコンクリートの上に、私一人が残された。

冷たい水の細かい粒子が孤独を運び、私の頬を優しく撫でた。ただ一人此拠に取り残されてしまったということが身に染みるようだった。乳白色の靄の中で、どうしようもない寂寥感に胸中を掻き乱されてしまった私は、何か自分を包んでくれるものが欲しかった。

此の心の空洞は何だ。此の心の空洞こそ地獄だ。地獄とは何か。荒ぶる鬼道畜生の棲家。餓え群がる餓鬼の無様な行為。常に戦に身を投じる死の戦慄。人間の心は、その全てを持っているではないか。人間の持つ心こそ、地獄だ。自らの生命を維持するために他の生命を殺さねばならない業を持つ全ての生き物。その中で、唯一罪の意識を感じる苦しむ存在。幾ら餓えを満たそうとしても、決して満ちることは無い飽くなき欲望。理想を目指し、どんなに戦い抜いたとしても、そこに待っている敗者の憎しみと、勝者の驕り。その心の空洞を見詰める自我が更に私を苦しめる。心を持つことで発生する、全ての行為が心の空洞を広げ、私を地獄へと突き落とすのである。

ここが地獄なら私は地獄に落とされた屍だ。

誰か私の傍で、私の存在の意味を確かめてくれる者はいないのか。私が大地に呪縛された屍ではないことを証明してくれる人間はいないのか。

雨に濡れて無様に泣く私が、唯独り此拠に居る。

依然として降り続く泣き咽ぶ煙雨に包まれて、私はいっそ冷え切った身体を草叢に横たえ、真白な天蓋の下で安らかに眠り、其のまま死がやって来るのを静かに待とういう気分にさえなった。しかし、真の地獄がそうである様に、此の煙雨の獄にも、死という安らぎはやって来てはくれそうに無かった。

(旅の途中)

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