『巣枯れ』日差しが心地好さを通り越してしまうくらいに眩しく照りつけている、初夏に差掛った時分である。午前中で大学の授業を終えた政樹は、自転車を漕いで家路についていた。 政樹は排気ガスの臭いを好まなかった。だから人や車通りの多い車道は避けて通り、好んで路脇に小さいながらも畑があるような小道を通っていくようにしていた。畑の傍の路は、とりわけ政樹のお気に入りだった。空が見えるからである。澄渡っていて、雲は遥か向こうに浮かんでいるのを見るのが、心を少しは紛らわせてくれるような気がするからだった。 大学から一旦帰宅した政樹は、徳利を逆さに伏せたような奇妙な物体が、軒先にぶら下っているのに気付いた。 表面はかさかさしていて、なにやら和紙で作った風船のような様相である。政樹はもっとよく見てみようと、真下に行って下向きに開いている口を覗き込んでみた。薄暗い中に、艶やかな山吹色が横切ったのが見えた。政樹は、それが蜂の巣であることを直感した。大人が一抱え出来る水瓶ほどの大きさの巣は、雑誌の写真などで見たことはあったが、それに比べると、腹の膨れた頭上の徳利は、あまりにも貧弱なものだ。 一旦家に入って台所へ行くと、洗い物をしていた母親の千代子に、政樹はその旨を告げた。洗い物を中座して外に出た千代子は一目見て、小さくはあるが、やはりそれが蜂の巣であることを看破した。千代子の言葉は、やがて低い羽音をたてて飛んできた、一匹の雀蜂によって裏付けされた。 あらゆる蜂の中でも、雀蜂は最も獰猛で危険な種類である。下手に刺されたりすれば、ショック症状を引き起こして、命すら失いかねないのだ。千代子は慌てて政樹に家の中にすぐに入るように云い付けた。政樹は素直に母親の言に従った。 千代子はすぐに市役所に電話し、雀蜂の除去を依頼した。今年は、何故か蜂が様々なところで巣を作り、除去の依頼が多く、役所では除去のスケジュールが詰まっていて、除去に来るまで一週間ほどかかると言った。しかし千代子はそれを承知しなかった。千代子が少々ヒステリックに強い口調で電話口で訴えているのを、政樹は空で本を読みながら、端で聞いていた。 「戸口のところに巣はあるのよ。毎日人が出入りするのだから、危険じゃないの。すぐにでも取り除いてくれないと、危なくてしょうがないわ。あなた達、公務員なんでしょ。若し何かあったら、責任とって貰うわよ。」 流石に即日とはいかなかったが、除去係は数日後にやって来ることになった。 二日後の昼下がりに、作業服を着た男が二人やって来た。千代子はパートの仕事に出かけていて留守であったので、政樹が応対した。 作業服の男たちは巣を一目見るなり言った。 「何だ、全然小さいじゃねえの。俺達も忙しいんだからさあ…」 少々むっとした政樹であったが、昨日の母親のヒステリックな様相を思い出し、少々赤面した。確かに、あの時の母親の様子を電話口で聞けば、どれほど大きくて危険な巣がぶら下っているのかと思ったことであろう。ただ、はあ、お願いします、とだけ呟くと、男達の指示に従って扉を閉め、家の中に入った。 巣を除去している間は、政樹は上の空でただ本の頁をパラパラとめくっていた。 本当は作業に入る前に巣を取り除く手順などを興味津々に詳しく聞こうと思っていた。恐らくは無理であろうが、出来れば巣の除去に立ち会いたいとさえ思っていた。そうでなくても家の中から、今は巣を切り取っている頃だろうか、などと外の作業の様子をあれこれと推測するのを楽しみにしていた。しかし今では、何だ、全然小さいじゃねえの、という一言の前にその期待も崩れ去ってしまった。肩身の狭い思いをしながら政樹は、一刻も早く作業を終えて、男達に帰って欲しいとひたすらに願った。 暫くすると、チャイムが鳴って、作業員が除去の終了を告げた。政樹は厳重に包まれた巣を横目にして、本当に小さい、と思った。ますます赤面の思いだった。 作業員が帰った後に、千代子が仕事を終えて帰宅した。玄関に入る際に巣が無いことを確認した千代子は、見るからにほっとした様子だった。 翌日のことである。大学に行く為に家を出た政樹は、昨日まで巣が在った軒先を、思い出したようにふと見上げてみた。 巣を除去した後には、まるで大木の枝を払い落としたような、丸く切り取った跡切り株の跡があった。その切り株の部分を支えにして、巣がぶら下がっていたのであろう。それはまるで切り株が重力を無視しているような、奇妙な光景だった。 しかし、政樹の気を引いたのは、もっと別のことにあった。その切り株の先には、艶やかな山吹色の雀蜂がただ一匹、ひっそりと留まっていたのである。 政樹は一瞬、作業員が手を抜いて、巣を全部除去せずに、一部を残したまま作業を終えてしまったのではないかと思った。 しかし、その考えが非合理的であることには、すぐに政樹も気付いた。 巣の小ささに呆れていたとはいえ、下手をすれば命にも関わる雀蜂の巣を、作業員がいい加減な気持ちで除去するはずもない。第一、作業に手を抜いて万が一のことが起こった時には、本人達が処罰されるのである。 明らかに、あの除去した巣に棲んでいた蜂であった。 太陽が惜しげも無く日差しを投げかける中、颯爽と飛び立った一匹の狩人は、蜜の匂いに誘われて花の間を飛び廻り、春の恩恵を享受している丸々と太った蝿や他の蜂達を、冷酷に狩っていたのであろう。或いは次々に生まれ、そこら中を這い回る幼虫たちをもっと広い部屋に住まわせる為に、巣を大きくする材料でも集めていたのかもしれない。 しかし意気揚々と引上げてきてみれば、自分の拠所である巣は、小さな名残の切り株を残して、母蜂と共に跡形も無く消えてしまっている。 かの蜂はさぞ狼狽したことであろう。若しかしたら、未だ幼き幼虫に与える為に苦労して拵え、遠路をずっと咥えていた肉団子を、落とすくらいのことはやったのかも知れない。 なんとも言えない思いが胸に沸き上がってくるのを、政樹はため息と主に吐き出した。 蜂は本能に従っているに過ぎない。自分の帰るべき場所が無くなったからといって、悲しむようなことはないのだろう。 しかし、政樹は酷く悲しかった。蜂はいつまでも巣があった場所に黙然と留まり続けている。政樹は一匹の雀蜂を眼にしてしまったことを、ひどく後悔した。 数日の間は、政樹は家を出入りする度に、軒先を見上げた。依然として、蜂はそのまま凝然と止まり続けていた。それを見る度に政樹は愚かなる蜂の本能に、蜂が本来持っているはずもない健気さを重ね合わせ、ひとり嘆息していた。同時に政樹は、蜂の居場所を奪ってしまった人間の残酷さに罪の意識を感じたのである。 政樹は家族の他の誰にも、そのことを告げなかった。若しまだ蜂が一匹でも残っている事がわかれば、殺虫剤なり何なりをかけて、親はあの蜂を殺してしまうだろう。政樹は、そんな事をするに忍びなかった。それは単なる感傷かもしれなかったが、できることならば、好きなだけ蜂にあの場所に留まっていて欲しいと思った。 しかしある日ふと見上げると、蜂は居なくなっていた。 政樹は、慌てて足元を見廻した。力尽きた蜂がその辺に転がっているのではないかと思ったからだ。しかし、蜂の死骸らしきものは何処にも見当たらなかった。
政樹は、あの蜂が何処かで死を迎えたことを確信したのである。
生殺与奪を繰り返す上界を尻目に、茂る葉っぱで陽光を遮られた、鬱蒼と屹立した花々の下の冷たい土の上には、山吹色の甲冑を身に纏い、鋭利な剣を持った嘗ての獰猛な狩人が、静かにじっとその身を横たえている。――蟻の行列に埋葬されるのを待つばかりになって。
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