『蜃気楼』細布子(ゆうこ)は夢を見た。 細布子は荒涼と広がる岩砂漠の只中に立ち、一人で風に吹かれていた。 どちらへ進んで行ったら良いのかさえも分からなかった。きょろきょろと周りを見まわしても、どの方向にも同じ風景が続いていた。雲一つ無い真っ青な空の下で、ごつごつと広がるだけで何も視界を遮る事の無い煉瓦色の岩の海原は、細布子に恐怖感を呼び起こした。 ――何処を目指して行ったらいいの? 視界を遮るものが何もないという事はどの方向も見渡す事が出来るという事ではあるが、それはまた、どの方向へ進んだら良いかという目印が無いという事でもあるのだ。それが無性に怖かった。 だから細布子は、どんな小さなものでも地面以外のものが目に映りはしないかと、必死に目を凝らした。全ての方向を見てみたが、ずっと同じ光景だけが続いていた。二回目。矢張り変わったものは何一つ目に入らない。そして三回目。 遥か遠くに豆粒ほどの小さな人影が見えた。細布子はやっと向かうべき目印を見つけた。何処を向いても荒涼とした岩だけが広がるこの場所で、人間の影を見たのが無性に嬉しかった。細布子は人影に向かって走っていった。 目の前に一人の男が立っていた。 麦藁帽子を被った男は一心に鍬を振い、地面を耕していた。白いシャツから伸びる筋肉質の腕は真っ黒に日に焼けて、汗に濡れた肌が艶やかに赤銅色に輝いていた。あまりにも熱心に鍬を振っているので、どうやら細布子が走ってきた事にすら気付かないようであった。 細布子は男がこんな砂漠の真ん中で畑を作って、何を植えようとしているのだろうかと訝った。そしてその鍬が一定のリズムを持って打ち下ろされる地面を見た時に、細布子は目を見張った。 男が耕していたのは、作物を植えるのに適しているような土壌とは到底言い難かった。殆ど降雨もないであろうこの地で男が耕しているのは、滋養を多く含んでいる柔らかい土の畑ではなく、からからに乾いた砂と石の畑であった。 言葉も無く呆然と佇む細布子に、男が気付いた。 「やあ、こんな寂しいところに人が来るなんて、珍しいですね。」 男はそう言うと、ぺこりと頭を下げた。細布子もそれにつられるかのように、慌ててお辞儀をした。 男は手を休め、鍬を杖代わりに寄りかかって体を支えるようにして、細布子の方をじっと見つめた。細布子はその瞳の深さに、一瞬圧倒された。そんな瞳をした人間は、今までに見た事が無かった。 そのあまりの深さに直視し難くなった男の瞳から眼を逸らした細布子はふと、男の肩越しの遥か向こうに、石の塔のようなものがちびた鉛筆ほどの大きさでぼんやりと林立しているのに気付いた。男はその細布子の視線を追って一旦振り返り、また細布子の方へ向き直った。 「ああ…あなたはあの蜃気楼の街から来たのですね。」 蜃気楼の街?細布子は男の言った言葉にふと疑問を抱いた。 ――私は…あの街から来たの? 細布子は全く訳が分からなくなってきた。細布子は混乱する心を振り払うように、逆に男に対して尋ねてみた。 「こんな寂しいところで、何故土を耕しているのですか?…それにその土…」 「今、一休みしようかと思っていたところです。一緒にそこに座りませんか?少しお話をしましょう。」 そう言うと、男はゆっくりと地面に座り込んだ。細布子は服が汚れてしまうのではないかと思って少し躊躇っていたが、結局隣に座って話を聞く事にした。 「私も昔はあなたと同じようにあの街に住んでいました。」 男は遥か向こうの、小さく朧げに浮かぶ町の方を見ながら言った。 「でもある時ふと、空を脅かすように高く聳え立つ塔に囲まれたあの街では、自分が見えなくなってゆく事に気付いたのです。 「例えば、あの街で幅を利かせているのはお金です。あそこの街にいる全ての人は、少しでも多くのお金を得ようとして躍起になっています。お金を沢山持つ事が自分自身の実力の証であると考えています。でも、お金はそれほどまでに重要なものなのでしょうか?確かにお金を持っている間は、そのお金に宿った力で色々なものを手に入れる事が出来るでしょう。しかし、金で手に入れたものは、全て何時かは無くなってしまうのではありませんか?そのようなものを貯め込む事に熱を上げたところで、失う時の悲しみが大きくなるだけではないのでしょうか? 「実際に私も、少しでも多くのお金を得ようとしていました。しかしふとした事から、私はそれまでに築き上げた、自分の持っていた全財産を失ってしまったのです。その時、私はお金というものがあの街の住人が考えているような実力の証ではなく、偶像に仮に貼りつけられる金箔のようなものだと気付いたのです。どんなに金箔を貼りつけたところで、元の象の出来が悪ければ、誰も見向きはしないでしょう?自分に貼られた金箔が全て剥がれ落ちた時、私は自分が如何につまらない人間であったかという事を痛感したのです。」 地面に座った首筋をじりじりと暑い熱気が焼いた。細布子はそのあまりの暑さに額に汗を浮かべながら、空を見上げた。空から降って来る光はあまりにも熱すぎ、男の話はあまりにも重すぎた。細布子は少々辟易していた。 「暑いでしょう。これでも被っていて下さい。」 そんな細布子の様子を見て、男は自分の被っていた麦藁帽子を脱ぐと、細布子に差し出した。細布子は正直言って見知らぬ人の麦藁帽子を被る事には抵抗があったが、結局は暑さに耐えかねて被る事にした。男は更に話を続けた。 「私は暫くの間、絶望と苦渋に満ちた無為の生活を続けました。それまで信じていたものが全て信じられなくなり、殆ど毎日酒を飲んで過ごしていました。でもある時、ふと酒を飲み、自分が駄目な人間であるという事を朦朧とした意識の中で再確認する事が、自分自身のどす黒い面を更に黒く塗り潰して誤魔化しているだけだと気付いたのです。 「私は街を出る事を決意しました。あの街では、自分のどす黒さを隠すのに、金をメッキするか更に黒く塗り潰して誤魔化すかのどちらかの事しか出来ない、と分かったからです。私は自分の暗さを隠すのではなく、光で洗い流す事にしました。だから自然の光に満ち溢れる、しかし荒涼として何一つの生命さえも生きていけないように見えるこの場所で、私はたった一輪でもいい、花を咲かせることに決めたのです。 男は足元に落ちている小さな石を拾うと、指先で擦り始めた。乾いた砂がぱらぱらと下に落ちていった。やがて男は、男の手元をじっと見ていた細布子の方へ小石を差し出した。 日焼けで褐色になった男の掌に乗っているのは、きらきらと光を反射して輝く透明な結晶であった。 「こんなに荒れ果てた砂地でも、こんなに綺麗な結晶が埋もれているのです。乾いてはいるが、この土には力がある筈なんです。」 「どのくらい前からここにいるのですか?」細布子は聞いてみた。 「さあ…。もう結構長いですよ。ここでは時間は関係無いのです。何日が過ぎようと、何年が過ぎようと。だから私は、ただその時を生きていることが出来るのです。 「あなたもあの街での暮らしに疑問を持ち始めた。だから此拠に来たのでしょう?」 細布子には分からなかった。自分が本当にこの男の言う街から来たのかも、男のやっている事も。こんな何も無い場所でたった一人で、何故花を咲かせる必要があるのだろう。 「寂しくなることもありますよ。何時でもたった独りですからね。」 そう言いながらも、男は微笑を浮かべていた。 「でも私はそんな時、想い浮かべる光景があるんです。あの聳え立つ摩天楼の幻の中からやって来た人が、この累々と重なり合う巌(いわお)の何処かに、たった一輪でも咲いている花みて、綺麗ね、とたった一言。それだけで私は報われるんですよ。」 あなたが来るまでに花を咲かせられれば良かったんですがね、といって男は白い歯を見せた。 「もしその場に私が居合わる事が出来るなら、その時にこそ私は涙を流そうと思います。今までに何回も失敗しましたよ。恐らくこれからもそうでしょうね。でも私は止めようとは思いません、なぜなら――」 ひょう、と風が吹きぬけて細布子の被っていた麦藁帽子を持ち去ろうとした。慌てて細布子は頭を押さえたが、既に帽子は風の掌に運ばれてひらひらと空中を飛んでしまっていた。細布子は立ち上がって帽子を追い駆けた。一生懸命に走って必死に手を伸ばしても、空中をまるで舞を舞うように優雅に飛んで行く帽子には指先すら触れる事が出来なかった。そちらへ行っては危ない、と叫ぶ男の声が後ろで聞こえた。どうやら男は細布子の後を追ってきているようだった。 風は段々弱くなり、麦藁帽子は岩だらけの地面にばさりと落ちた。細布子は急いで駆け寄って麦藁帽子を手に取った。 そしてふと前を見ると、麦藁帽子が落ちた地面の先が、底も見えないような奈落に続いている断崖絶壁になっているという事に気付いた。 細布子はそのあまりの深さに恐れを成して、思わず後退りをした。まかり間違えば細布子はあの奈落へと真逆様に落ちていただろう。 大丈夫ですか、と駆け寄ってきた男に細布子は震えながら抱きついた。 「だから危ない、と言ったのです。可哀想に、よほど怖かったんですね。こんなに震えて…」 暫くの間、細布子は男の腕の中で震えていた。そうしていると細布子は気持ちが落ち着いてきて、震えが段々止んできた。 ふと、男の身体が強張ったのを細布子は感じた。男の擦れるような声が細布子の耳に入ってきた。 「…何回も失敗しました。でも私は止めようとは思いませんでした、なぜなら――」 男は、震えていた。 「――なぜなら私は、疑う力より信じる力の方が遥かに大きい事を知っていたからです。」 男の顔を見上げた細布子の目に、何かをじっと見つめながらも、ぼろぼろと涙を流す男の顔が映った。 細布子は先程男が言った言葉を思い出した。たしか男は、この砂漠に花が咲くときにだけ涙を流す、と言ったのではなかったか。すると… 細布子は振り返って、男の大きな瞳が一心に見つめている方向に視線を移した。 男が見つめていたのは、まるで天の神が剣で深く切りつけたような鋭い断崖の縁の辺り、丁度風が麦藁帽子を置き去った場所であった。そしてその無骨な岩の切り口には―― 天色(あまいろ)の花がたった一輪、果敢無げに咲いていた。 男は一歩、また一歩と小さな花の方へ近付いていった。そして断崖の切り口の一歩手前で腰の抜けたようにへたりと座り込んだ。 「今まで花は自分の耕す畑に咲くものだとばかり思っていました。でも…」 男は震えながら、風に揺れている花に手を伸ばした。 「こんなに身近な、こんなに荒れ果てたところに既にもう、花は咲いていたんですね。」 男はおいおいと泣きじゃくった。その姿を見た細布子の目にも、涙が溢れて来た。 細布子は男から目を逸らし、空に目を向けた。ぱちぱちを目を瞬いて、そして。 そして初めて、この砂漠を覆う空には光り輝く太陽が無い事に気付いた。 ――太陽が無い?それでは、この光は何処から…。 ――太陽が無いのにこの人は花を咲かせようとしていたというの?それにあの畑の痩せ細った土壌。どんなに耕したって、花なんか咲くわけがないじゃない。そんな無益な事をこの人はずっと… 否。無益ではなかったのである。なぜなら、この砂漠の中に生えている花を遂に見つけたのだから。蜃気楼の街を出てずっと花を探して砂漠をさ迷い歩き、それでも見つからずにとうとう自分の畑を作ってそこに花を咲かせようとした。そしてずっと畑を耕し続けた末に―― 「これが夢なのですよ。」 細布子の耳元でそう囁く声がした。 振り返ると、男は消えていた。 帽子だけが細布子の手の中に残った。 そして細布子は、これが夢であるという事を悟った。 太陽は無くともいっぱいに降り注ぐ光の熱気の中で、遥か遠くの幻の摩天楼が揺れていた。このじりじりと光の焼け付く中にいると、今まで自分が本当にあの摩天楼の中にいたのだということが鮮明に思い出された。 あの街は暗い。しかし暗いからこそ、この眩しすぎるほどに光り輝き、熱すぎるほどに照りつける空からは無縁でいられる。空は広い。しかし広すぎる。その広すぎる空からいっぱいに注ぐ光は、あまりにも眩しすぎるのだ。 ――それが夢。 細布子は蜃気楼の街に戻る事を決意した。 ――自分は未だあの街の本当の暗さが分かっていない。だからこの空が眩しすぎる。金箔を貼っても、黒く塗り潰しても、拭っても、どうしようもないほどのあの街の暗さを見たときに、この強すぎる光の下で、その暗さを拭おう。私はこの強い光に耐えられるほど暗闇を、未だ見てはいないのだ。 だからそれまでは、あの街で生きていこう。 しかし。 ――何時かは覚める夢だから。 「もう少し此拠で見ていていいですか?」 細布子はひっそりと咲いている、今まで誰にもその存在を気付かれなかった小さな天色の花に語りかけた。
|
|||||