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『審判』

うらうらと照りつける日差しの中、丸太造りのバスの待合所を見つけた私は、疲れ切った足を引きずりながらもいそいそと、直射日光の当たらないベンチの日陰に腰を下ろして、ほっと息を吐いた。

時刻表によれば、後二十分バスは来ない。たまたま待合所があったからよいようなものの、もし遮るものとて殆ど無いこのような山道の日差しの中で、バスを待たされるのだとしたら、それは尋常な事ではなかっただろう。私はベンチの傍らを斜に切り取っている日差しを、恨めしそうに睨め付けた。

私はバスが来るまでの二十分という時間をいささか持て余し気味であった。

待合所にはただベンチが一つ置いてあるだけで、格別面白みのあるものが何一つある訳ではない。天井も壁も、そしてベンチさえもが茶色一色のペンキ塗りであり、退屈さを催すばかりだ。文字が書いてあるだけましだとばかりに、私は真白なペンキ塗りの時刻表へと視線を移した。

時刻表は直射日光を照り返して、この上もないほど真白に輝いていた。時刻表を支えるポールと、待合所の壁の間には小さな蜘蛛の巣が張ってあり、宿り主である小指の爪ほどの小さな蜘蛛がその真中に鎮座していたが、時折吹く風に巣と共にゆさゆさと揺らされる他は、まるで祗管打坐を身上とするかのようにぴくりとも動かなかった。

私は、しばらく時刻表の数字を頭の中で足したり引いたりして愚にもつかない時を過ごしていたが、そのうちに飽きて止めてしまった。時刻表から視線を外すと、直射日光を照り返す白塗りをずっと見ていた為に目がチカチカし、頭がまるで二日酔いの朝のようにぼうっとして、少々気分が悪くなった。これから乗り心地の悪いバスに揺られてうねる山道を下って行かねばならないのに馬鹿な事をした、と後悔の念が私の心を途切った。

私は容赦ない日差しの眩しさから逃れるために、しばしの間目を瞑っていることにした。

時刻表の形をした青白い残像が瞼の奥に残っていたが、ぺかぺかと明滅する残像は瞼の裏の暗闇の中で徐々に溶けるように無くなっていった。暫くすると頭もすっきりと回復してきた。

私は眼を開いた。

相変らず太陽がアスファルトを真白に照り返していた。しかしもう眩しすぎる日差しを瞼の中に入れるのは御免だった。だから私は、ベンチの日陰になっている部分だけを見るようにして視線を落とした。

するとその視線の先、私の傍らの日陰になったベンチの上には、小さな飛蝗が背後の壁の方を向いてちょこんと座っていた。

道端の雑草を毟り取ったように小さいが、体色の緑が焦茶色のベンチによく映える飛蝗である。先細りの頭からは二本の触覚がぴんと真直ぐ前に向かって張り出し、芥子粒ほどの小さな眼は磨き上げられた翡翠のように艶やかであるが、その眼が何を見ているのかは判然とする由も無い。しかしじっと同じ姿勢で毫も動かずにいる様子は、まるでひとかどの人間であるかのように思案しているようにさえ見受けられた。

私はもっと良く観てみようと、何の気なしに姿勢を少し崩し、飛蝗の方へ身体を向けた。

飛蝗は私の動きにぴくりと反応したか、警戒するかのように向きを変え、刀剣の切っ先のような頭を待合所の壁から正面の車道の方へと向けた。そして華奢な後ろ足を蹴って、ベンチから一跳びに飛び降りた。

私は飛蝗が飛んでいった先を目で追った。

地面の何処にもその細長い緑色の姿は見られなかった。ただ日差しに灰色の明度を一際目立たせたアスファルトが続いているばかりである。私は首を傾げた。飛蝗は何処へ消えてしまったのであろうかと、訝りながらきょろきょろと辺りを見まわした。そしてふと視線を地面から時刻表の方へと移した時に、そこに掛っていた蜘蛛の巣の端に飛蝗が引っ掛かっているのが見えた。

私は思わず身を乗り出すようにしてベンチから立ちあがり、蜘蛛の巣の傍に跪いた。

自由を奪われた飛蝗はそこから逃れようと長い後ろ足をぴんぴんと蹴って頻りにもがいていた。か細い銀糸で作られた蜘蛛の小さな雲堂は、侵入者の動きに敏感に反応して細かく揺れた。その宿り主の蜘蛛は行動を起こしかけていた。

蜘蛛は、自らの網に獲物が掛かると、画龍に最後の眼が点ぜられたかのように、突然靜から動へと転じる。いそいそと糸を伝って獲物の傍まで行く。お尻から糸を出して獲物を木乃伊のようにぐるぐる巻きにし、自由を奪って逃げられないようにしてしまう。そしてその上で獲物の体液を吸う。獲物はただカラカラに干からびる。

このままでは飛蝗は糸でぐるぐる巻きにされてしまう。

私はそのような様子を目の当たりにするに忍びなかった。そこで、一刻も早く網から飛蝗を救い出してやる事にした。

ところが、私が飛蝗を救ってやろうと手を伸ばした瞬間に、あろうことかもう一匹別の獲物が巣に飛び込んできたのが、私の視界に入ってきた。

それは飛蝗よりももっと小さな菱型の浮塵子だった。

先刻まではただ風に揺られるだけであった細銀の蜘蛛の巣には、今や動き回る三つの生命が同居していた。冷酷な狩人が一人、もがきまわって網を揺さぶる獲物が二人。繊巧に織り成され、絶妙なバランスを以って張られた両掌を合わせたほどの大きさの世界で、蜘蛛と飛蝗と浮塵子は其々の目的を果たす為に必死になっていた。

飛蝗と浮塵子は粘り付く糸を振りほどこうとして盛んに暴れていた。このままでは、蜘蛛によって二つながら生ける木乃伊とされてしまう。蜘蛛はいそいそと獲物に向かって近付いてくる。奇しくも飛蝗も浮塵子も殆ど蜘蛛からは同じような距離に居る。

私の中で、刹那の時間に万華鏡のように様々な色を成す思考が目まぐるしく飛び回った。両方助けてやるのは無理である。どちらか片方しか救えない。では、どちらを選ぶべきなのか。

結局私は刹那の判断を下した。つまり、最初にそうしようとしたように――飛蝗をつまんで蜘蛛の糸を引き千切るようにして救い出したのである。

私は柔らかくつまんだ飛蝗をベンチのすぐ前のコンクリートに置いてやった。指でつまんだ時に飛蝗は後ろ足を痛めたのか、少しの間そのままの姿勢で足をひくひくと動かしていたが、しかしすぐに後ろ足で強く地を蹴って、待合所の外へ飛び出して行った。

私は蜘蛛の巣に眼を戻した。そして、目の前で展開されている光景を見た時、自分が蜘蛛の巣に眼を戻した事をひどく後悔した。

私の目の前では、網に掛かったままの浮塵子に素早く歩み寄った蜘蛛が、獲物を生きながらの木乃伊に転じるべく、自らの腹から紡ぎ出す残酷な銀の糸でぐるぐる巻きに絞めつけていた。その細い二本の脚先を支点として、獲物を独楽の様にくるくると回転させながら、その菱形の身体を徐々に糸に包み込んでゆく。私は後悔した。小さいながらも生きながら生命を奪われる様子を眼前にするのは耐え難かった。耐え難かったが、しかし何故か、その光景から僅かにも目を逸らすことは出来なかった。蜘蛛の残酷な営みは、どうしても目を逸らせないほどの魅力を持っていたのである。

照りつける日差しなど最早気にせずに、私はしゃがみ込んでじっと目の前の光景に心を奪われている。

蜘蛛は完全に糸を巻き終え、糸を振りほどこうとぴんぴんと末期の足掻きをする浮塵子を尻目に、獲物から離れて行く。そのまま獲物が完全に死ぬのを待ってその体液を吸うつもりなのか。或いは今だ空腹ではないのか。何れとも判らぬが、蜘蛛は網の中心辺りで、又じっと動かなくなる。しかし白い産着に包まれたかのような浮塵子はまだ動いている。震えている。遍く全ての生物の持っているたった一つの持ち物――生命――を失うまいとする為に、まだ足掻いている。浮塵子の生命力を吸って生き延びる蜘蛛はじっと動かない。死に向かっている浮塵子は、弱りきった心臓が脈動するように白い糸に巻かれたままぴくぴくと脈打っている。

暑さの為か、或いは残酷な光景を見たための脂汗か分からぬが、私は額に一筋の汗を浮かべていた。一つ大きな溜息。そして私は立ちあがり、もと座っていたベンチへと腰を下ろした。

ベンチに戻った私は半ば放心状態で、その目にはもはや照りつける日差しの眩しさも、光を照り返す時刻表も壁の隅に揺れている蜘蛛の巣も見えていなかった。ただ考えていた。自分のとった行動がもたらした結果について深く考えていた。

私は飛蝗の生命を救い、浮塵子の生命を間接的に、絶った。いつもだったら、そのような事は気にしないだろう。どの瞬間にも数多くの生命が絶たれている。たまたま私は、星の数ほどある生命の消滅場面のうち一つに立ち会った。ただそれだけなのだ。

しかし、私は単なる傍観者としてではなく、飛蝗の生命を救う事によって、その一場面に介入してしまった。その事が執拗に私を悩ませたのである。

私は飛蝗の生命を救った。しかし、浮塵子の生命は目の前で無情にも奪われた。その光景が目に入らなければ気にしなかったかもしれないが、私はそれを目の当たりにしてしまった。生きながら自由を奪われるという残酷さを、目の当たりにしてしまった。

逆に浮塵子の生命を助けようと思ったら、今度は飛蝗の生命が同じ方法で奪われた事であろう。やはり私は小さな蜘蛛が、自らの身体よりも大きい飛蝗を糸でぐるぐる巻きにするところを直視せねばならなかったであろう。

それでは、両方の生命を助けようと思ったらどうなるか。その場合は、蜘蛛に取っての食料を奪う事になる。蜘蛛を餓えさせなければならない。

それは、生き延びる生命とそうでない生命とを選ばねばならなかった、審判の日を終えた後の神の苦しみである――もし神が苦しむ存在であるのだとしたら。

エンジンを震わせながら目の前に止まったバスの扉が開き、空気の漏れる音が、深い思考の底に沈み込んでいた私を、現実の世界に呼び戻した。排気ガスの不快な臭いの篭る車内に乗り込み、私は手近な座席に腰を下ろした。

私は窓の外を見た。窓枠の隅の方に、小さな蜘蛛の巣が映っているのが見えた。

バスが発車して、網の上で風に揺られている白い小さな塊が視界から外れた時、疲れ切った私は窓に頭を凭せ掛けて、静かに目を閉じた。

私は闇の中で、自分の足元でうねっているエンジンの胎動を感じた。

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