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『忘れな柿』

浩輔は、今一つの憂鬱を抱え込んでいた。

浩輔は虚弱な児であった。体力勝負には全くと言ってよいほどに自信が無い。小学校の低学年という年齢の頃は、頭の良さよりも体力的に発育している人間のほうが集団の中では権力を持つことが出来る。頭の良い子ではあったが、だから、浩輔は完全に権力を握り損ねていた。それどころか何時の間にか、自分では何故とは解らないままに、浩輔は完全に苛めの対象にすらなっていたのである。

浩輔はただ無気力にその苛めを受け止めるようになっていった。反抗しようとも思わなかったし、反抗したところで相手に敵う筈もなかった。だから浩輔は、ただ無気力に小さな暴力を受け止め、ただひたすら耐え、毎日の日課のように無感動に苛められていった。

浩輔の家は母子家庭である。父親を幼少の頃に失い、その顔すらよくは覚えてはいない。だから浩輔が物ごころついてから後、日常的に眼にする「力」は、男性的な力強さではなく、むしろ女性的な忍耐強さであった。事実、浩輔の母親は、女手ひとつで二人の生活を支えており、しかも、女性であるというだけで高額の金が手に入ってくる可能性のある仕事、つまりは「女」を切り売りする仕事を全くせずに、生活を成り立たせていた。

そんな母親を見て育ってきた浩輔である。だから浩輔にとっては、「耐える」という、母の持つ大きな力こそが、模範となっていたのかもしれない。

自宅を出て学校へ出かける時、浩輔は必ず大きな声で「行ってきます」と、母親に言う。浩輔にとっての「家」とは、母親そのものだったのである。そしてそれは、以後の一日の時間を自分一人で乗り切って行くという、自分の心に対する合図でもあったのだ。

大きすぎて違和感のある黒い光沢のランドセルを背負って、母親に声をかけるその声の様子からは、憂鬱な様子は微塵も感じられない。しかし台所から聞こえてくる母親の「いってらっしゃい」の声を背に一歩外に出て、玄関の扉を閉めたその瞬間が、憂鬱が浩輔の体に重石をかけ、学校への歩みを鈍らせる始まりの合図であった。毎朝の「行ってきます」の挨拶は、母がもっと注意して聞いていれば、それは口調の強すぎる、破れかぶれの挨拶であるという事に気付くはずであった。それは心の中の憂鬱さを無理矢理に押しやろうとしている、偽りの元気だったのだ。しかし、母はそれを推し量っていられる余裕があるほど、楽な生活を送ってはいなかった。浩輔が学校へ出かける時間は、母にとっては、自分が仕事に出かける準備をする時間でもあったのだから。

浩輔は、学校へ出かけるためのその一瞬の時間以外は、母親に心の奥底に有る不安を少しも見せなかった。自分の母親の苦労をずっと見てきていた浩輔は、せめて自分に降りかかる火の粉は自分自身で払おうと心に決めていたのである。

家を出た浩輔は、真直ぐ学校には向わない。たいていは、方向だけを学校の方に見定め、しかし毎日別の道を通って学校に向かう。時にはかなりの遠回りをすることもある。それでも遅刻してしまわないだけの時間が、浩輔にはある。たった一人でまだあまり人通りもない慣れない住宅街を歩くのは不安でもあるが、浩輔にとってはむしろその時間が、つまらない日常から脱却することのできるその日の苛めに対する心構えをする貴重な時間であったのかも知れない。 遠回りをする。とは言っても、遅刻をしてしまうほど遠回りをすることはない。入学したての頃は早めに来て校庭で遊んでいたその時間を、登校の時間にかけるようになったというだけのことである。理由は単純で、長い時間学校にいればいるほど苛められる可能性が高くなるからだった。

最初の頃はいつも曲がって行く角を曲がらなかったり、別の方向に曲がってみたりするだけだったが、段々遠くまで足を運ぶようになって行った。しかし方向感覚は割としっかりしていたので、一度も迷子になってしまうことは無く、ほぼ時間どおりには学校に到着していたのである。

ある朝のことである。浩輔は大分遠回りをして学校に向かった。

空には鬱屈した灰色が垂れ込めていた。ふだん浩輔が見ている空といったら、四角四面の居住空間で直線に区切られた、狭い隙間から覗く小さな空でしかない。浩輔の通う小学校の校舎にしてからが住宅街の中に建っている。金網に囲まれた校庭から見える空は、細かい幾何学模様に区切られていて、ちっとも広くない。あるいは立ち並ぶ並木に遮られている。

空を切り取る障害物に埋もれるようにしていつも歩いている浩輔は、その日だけは突然開けた視界に瞳を輝かせた。目の前には、からからに乾いた黄土色の畑が広がっていたのである。

木柵に張り渡した針金の向こうには、葉物の野菜が整然と列を成している。道路側に近い隅の方には、柿の木が一本すっと立っている。灰色の曇空を背景に、まるで陶器に貫入った皹のように痩せ細っている。切り絵のようでもある。余りに寂しげに立っているその木が枯れ木でないことは、たった一つだけ申し訳なさそうに細枝にぶら下っている、小さな実で分かる。

それは、馬鈴薯のようにところどころに凹みのある、不恰好な柿の実である。大きさは浩輔の握り拳ほどであろうか。しかしそれでも、全ての葉が落葉してしまっている寒々とした細枝では、鼠色の空を背景として、その橙色が泥中の宝玉のように艶やかに自己主張をしているように見える。

なぜたった一つだけ残されているのか?

畑の持ち主が実を採り尽すことを忌んで、一つだけ実を残しておく木守をしているのか。しかし浩輔にとってはそのような事が分かる筈もなかった。

――あの柿は僕と同じだ。

浩輔は、その細枝の柿が誰も食べたがらないから残されているのだと思った。浩輔はその日から、登下校の際に、必ずその柿の木の前を通るようになっていた。

自宅を出て学校に向かうときも、何時もの様に苛められて憂鬱な気分で下校する時も、浩輔は柿の木を頭上に見上げた。しかし一週間経っても、二週間経っても、その柿の実が無くなる様子はなかった。人が食べない歪(いびつ)な柿とて、鳥が啄(ついば)むくらいはしそうなものである。しかし、何時まで経っても柿は歪なままで、その艶々とした皮を嘴(くちばし)で破られる様子も無く、細枝に黙然とぶら下っていた。

師走に差し掛かりかけた頃のある日のことである。浩輔は学校が終った後、、真直ぐ家には帰らずに、少し遠回りをして、住宅街の中の小さな公園のブランコで一時を過ごしてから、家路についた。

いつものように取残された柿の木の前を通って帰ろうとした浩輔は、その手前の曲がり角を曲がろうとして、ふと騒いでいる数人の子供達の声を聞いた。

「もっと強く投げてみろよ。」

「石ころじゃ駄目みたいだ。何処かに長い棒でも無いか?」

それらの声の中には、何時も浩輔を苛めている子の声も混じっていた。浩輔は別の道を取って、鉢合わせしないように帰ろう踵を返しかけたが、不意に嫌な予感が心をよぎり、恐る恐る塀の陰から声のする方を覗ってみた。

不安感は的中していた。苛めっ子達は、例の柿の前に集まって、たった一つだけ残った小さな柿に向かって石を投げつけていたのである。それはどうやら、柿の実を地面に落とそうとしているらしかった。

所々が凹んでいる、あれだけの不恰好な実である。よもや食べたいという理由で枝から落とそうとしているのでは在るまい。恐らくはただ単に石投げの標的として、束の間の遊び道具になっているに過ぎないのだ。

急に普段は感じたことのないような憤りが込み上げ、浩輔は考える前に、もう行動を起こしていた。つまり、塀の陰から飛び出ると、骨ばった細い足で地を蹴って、苛めっ子達の前に走って行ったのである。

苛めっ子達の方では急に聞こえた駆け足の音に、一瞬悪戯が見つかったかと思ってびくっとしたが、その足音の主がいつも苛めている弱っちいもやしっ子であると分かると、安堵の表情になり、さらに又再び苛めてやろうという意地の悪い顔に変貌していった。

浩輔は苛めっ子達のところに辿り着くと、無理矢理柿の木と苛めっ子達の間に割り込むようにして柿の木の前に立ちはだかった。ほんの短距離を走っただけの筈だったが、それでも息切れしかけていた。

何時も無抵抗に苛められているだけの浩輔が、自分達の前に立ちはだかったので、苛めっ子達は少々驚きながらも、しかし浩輔を取り囲んだ。浩輔の眼は普段の無気力な眼ではなく、怒りに満ちていた。その眼を見て、さらに苛めっ子達は驚きの表情を隠せなかった。しかしすぐに、苛めっ子達はいつものように浩輔をどやし始めた。

「何だよお前は。」

体格のいい、いつもリーダー格の少年が強く浩輔の肩口を突き飛ばした。

「遊んでる邪魔するなよ。」

他の一人が浩輔の頭を張り飛ばすようにして、帽子を毟り取った。

「やっちまえ。」

後はもう、誰が何を言っているのかも聞き取れなかった。もっとも、子供達は実際に、意味を成す言葉などは一言も発してはいない。ただ自分より弱い者を抑えつけ、相手に対する相対的な強さを実感するだけの、内なる快感の赴くままに発する声に満ちているのは、卑しさと不条理でしかない。次々に挙がるのは無意味な歓声である。卑しさと不条理の交錯する中で、五人の少年は一人の少年を、肉体的にも精神的にも手荒く玩んでいた。

突き飛ばし、叩き、蹴りとばす。

浩輔の瞳の中の怒りに満ちた光は、もはや消えかかっている。代わりに惨めさと無気力の色が、その瞳を満たし始める。結局は、こうなってしまうか。また、苛められた。ただ、それだけのことなのか。

浩輔はいつものように、その小さな身体には少々持て余し気味のランドセルと一緒に地面に倒れかかった。苛めっ子達は、地面に倒れた浩輔をそれぞれに蹴り飛ばし始めた。

浩輔は頭を庇うようにして、海老のように背中を丸めた。倒れた浩輔の眼に、空を背景にした苛めっ子達のシルエットの向こうに、たった一つだけの真赤な柿の実が、まだ落とされずに枝に残っているのが映った。

それを見た瞬間、浩輔の瞳に先程浩輔を息切れさせるほどに走らせた、憤りの感情が甦ってきた。浩輔の目に、最近はもう浮かばなくなってしまった悔し涙が薄らと浮かんできた。

浩輔は叫んだ。

「わああああああああああああ…」

意味のある叫びではない。しかし、苛めっ子達は普段は苛めてもただ無言にされるがままにされている浩輔が初めて大きな声で叫び声を上げたという事に驚愕の色を示した。一瞬、地面に倒れた浩輔を蹴る足が止まった。浩輔のめちゃくちゃに振り回した腕が、一人の子供の向う脛に当たった。

「痛ッ!」

その子は浩輔を取り囲む輪から外れ、向う脛を押さえてしゃがみ込んだ。浩輔はその隙をついて起き上がると、矢張りまだめちゃくちゃに腕を振り回しながら苛めっ子達に向かっていった。浩輔は自分の腕が、誰を叩いているのかなど全く分からなかった。だが、自分の拳が何かを叩いているのは何回も感じることが出来た。拳が痛い。視界が目間苦しく変わる。

浩輔が気付いた時には、周りに苛めっ子は一人も居なくなっていた。ただ酷く胸に障る自分の息遣いだけが灰色の寒空の下に響いているのが聞こえた。

浩輔はそのまま、針金を張り巡らせた柵の一つに凭れかかって地面に座り込んだ。背中に当る骨々(ごつごつ)とした木の感触は不快であったが、もう今更動く気力は失せていた。

空も、アスファルトの地面も、電信柱も、何もかもが灰色だった街中の一角は、赤みを帯び始めた太陽の色に薄らと染まりかけていた。どれくらいの時が経ったのか。鴉の一声が薄曇りの空に響いた。浩輔は気分が少し落ちつくと、柿の木を見上げた。

雲の垂れ込める空に、痩せた指のように張り巡らされた細枝には、あの歪な柿の実が何事も無かったかのように蕭然と、いつもと変わらぬ姿でぶら下っていた。柿の実の色が雲に溶け出していた。

浩輔の目から、温かい涙が溢れ始めた。ついには胸を突き上げるように、嗚咽が込み上げてきた。

浩輔は、泣いた。悲しかったのではない。苛められたことが悔しかったのでもない。

歪な柿は、相変らずぶら下ったままだ。

――だから浩輔は、一人でいつまでも泣きじゃくっていた。

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