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『鐘楼』

生命力に満ち溢れていた夏が、今にも終わろうとしている季節の日曜日の日差しは、空の上を薄い膜のように覆っている雲に遮られ、その光を和らげている。太陽は地球上の生命に自らのエネルギーを分け与えるという神の日課をもう少しで終えようとし、真白な銀の鏡の如く光り輝く昼間の眩しさを通り越して、大地の布団に潜り込んで眠りにつこうとする安息の予感に興奮して紅く憂いを帯びた虹彩に輝き始めていた。

そんなオレンジ色の心地好い風を髪に含ませながら、つい先程友人と別れて一人家路についている政樹は、ゆっくりと自転車をこいでいた。

政樹は同じ小学校の友達と一緒に、川遊びに行った帰りであった。未だ秋と呼ぶには間があるが、この頃の日差しは水遊びをするには十分過ぎるほど暑い。遊びに行った川は政樹の家からだいぶ離れた場所で、辛うじて政樹の自転車での行動範囲の限界線にある友人宅の近くに流れていたから、友人と別れた後の帰りは、政樹は殆ど見知らぬ道をゆったりと自転車をこいで家に向かわなければならなかった。

見知らぬ道を行くのは、心に心地好い刺激をもたらす。もう高学年であるとはいえ、小学生の行動範囲などたかが知れていた。家と学校の間の通学路や近くの小さな公園、皆よりほんの少しお金持ちで沢山玩具を持っている友達の家……殆ど毎日が同じ道の行き帰りである。また、生活のほとんどは学校内で過ごす時間に占められているわけで、流石に五年以上も同じ場所にいると、幾許かの退屈さを覚えた。

しかし今日は違った。政樹は今まで遊んだことのない友達と、した事のない遊びをしたのである。人工的に造られたプールではなく、自然の川の中に入って遊ぶ。川といってもそれは、どんなに深いところでも政樹の膝までしかないような小さな川だったが、それでも新鮮な体験だった。政樹はいつになくはしゃぎ、冷たい水に足首を浸しながら無心に遊んだ。今思い出すと、遊んでいる時は時は自分でもその理由が解らないくらい興奮していて、何時の間にかもう帰らなければならない時刻になってしまっていたのである。

時折髪を吹き上げる軽い風に背中を押されるようにして、疲れ切った足で自転車をこいで住宅街の中を走っていた。人通りはあまりなく、空気は沈み込んでいるように停滞していた。住宅が立ち並んではいるとはいうものの、虫食いの緑葉で埋め尽くされた畑が所々にあるので視界は開けていて、沈みゆく太陽の色に滲む空の様子が時々遠くに見ることが出来た。ある畑脇を通り過ぎようとした政樹はふと、その空間の一隅に、見た事も無いような建造物があるのに気付いた。

政樹は道端に自転車を止めた。

それは三階建ての建物の屋根くらいの高さに聳え立つ、鉄骨で組まれた塔であった。

送電線をそのまま小さくしたような形の細長い台形に四角く組まれた煉瓦色の鉄骨の一辺には、やはり同じ煉瓦色に塗られた梯子が打ち付けられていた。そしてその天辺には、何時だったか家族でお寺の縁日に行った時に間近で見たのを小さくしたような鐘が、それでもそれはどうやら政樹の上半身くらいの大きさはあるようだったが、吊り下げられていたのである。

塔の足元には、閉じられたシャッターの上に「本町消防倉庫」と看板の書かれている、排気ガスに煤けた箱型の倉庫があった。政樹は合点した。足元の倉庫が消防倉庫なら、塔の天辺に吊り下げられているお寺の鐘の赤ん坊は、近所が火事の時にかんかんと叩いて知らせる「半鐘」なのだ。

非常の際には、この場所には人が詰め掛けるのかもしれない。しかし消防の倉庫など普段は誰も使う者など居る筈もなかったから、鉄塔の周囲の閑散とした空間の入り口には、誰でも一跨ぎできるくらいの鎖で、ただ申し訳程度に立入禁止の意思表示がしてあるだけだった。

政樹は、何故か天辺に半鐘を吊り下げたその鉄塔に、無性に上りたくなった。

自転車から降りると、政樹は鎖を跨いで塔の足元まで行ってみた。そして三階建ての屋根ほどの高さの鐘楼を間近から見上げると、暮れかかった日に染められた溶鉱炉のような夕空の背景の中で、煉瓦色のペンキに塗られた鉄塔の天辺に小さな半鐘の黒漆たるシルエットが、遥か向こうを吹き抜ける風に茫漠と広がるうろこ雲がゆっくりとその形を変えていく様を背景として、ただ黙然と小さな存在感を見せていた。

政樹は梯子に手をかけると、ペンキで塗装された鉄の梯子の一段一段を、注意深く上っていった。梯子には車から吐き出された排気ガスの煤が浮き出し、掴む手のひらが黒く汚れた。遊んだ後で少々疲れていたとはいえ、今や好奇心が疲労を拭い去っていた。最上段まで上りきるのにそれ程の苦労はしなかった。政樹は天辺まで上りきると、半鐘の吊り下がっている、大人一人がやっと乗れるくらいの手摺つきの狭い足場に腰を下ろした。

落ち着いて一息つくと、政樹は辺りを見まわした。床の鉄板が腿を冷たく引締めた。柿色に返景を照り返した半鐘に右手を軽く押し当てると、手のひらにも冷気が伝わってきた。何故か今更ながらに疲れを感じたが、しかしどちらかといえば、金属のひんやりとした心地好さに酔っている政樹であった。建物に遮られる事のない夕暮れの涼風が、優しく政樹を撫でた。政樹の瞳には、沈みゆく夕日の茜色が溶け出した、溶鉱炉の中のような遠くの空が映っていた。

「…雲のオーロラだ。」

和紙のように薄く、幾重にも重なって広がる雲を通して沈みゆく夕日が、その鮮烈な光を和らげた時、空は偶然という名の画家の手によって、ありとあらゆる明度彩度の金色に染め上げられていた。遥か上空を吹く風に乗って少しずつ容を変えていく雲は、カンバスという人間の手によって作り出される平面上ではなされ得ない、時の流れと共に移り行く永遠の風景画を描き出していた。そしてその雲が緋色の返景に抱かれて風の流れに溶け出し、柔らかな繊毛の刷毛でパレットの鉛白色を薄くなすったような形を成して夕日を映し出した時、氷に閉ざされた極地でなければ見ることの出来ないオーロラという空の神秘が、寥々と聳え立つ鉄の鐘楼の上で、独り蕭然と座っている小さな一人の少年の前に再現されたのである。

優しく吹きぬける風に包まれて空を映した政樹の眼から一筋、感情が粒となって零れ落ちた。涼しげな風に吹かれながら、それでもまるで無防備な自分が、温かい腕に抱かれて守られているかのような錯覚を覚えた。

胸中満たされず、悲しくて涙を流した事は今までに何度かあった。しかし今流した涙は、悲しいときに心の隙間に充満する涙とは性質を異にしていた。政樹はそれとは気付かなかったが、生まれて初めて、悲しみによらない感動の涙を流したのである。

政樹の心は、満ちたりた思いに占められていた。今日という日が特別な日になった。否、特別な日になる筈だったのである。政樹はふと、眼下に怒鳴り声を聞いた。

「馬鹿野郎!おまえ何処に登ってんだ!」

見下ろすと、紺色のニッカボッカにゲートルを巻き、土で汚れたシャツを着た、白髪混じりの頭の男が鐘楼の足元に立って、此方を見上げていた。真っ黒に日焼けした顔に、引き結ばれた口元の皺と、強い光を湛えた眼が、やけに恐ろしげな印象を与える男だった。

「危ねえからさっさと降りろ!」

政樹は胸を殴られたような衝撃にしばし呆然となったが、その男の眼光のただならぬ様子に、空に垂れていた足を引っ込め、慌てて梯子を降りた。梯子を降りて行くにつれ、無意識に涙を流してしまったほどの感動は薄れ、政樹は親に悪戯を見つけられた時のような罪悪感が胸を支配するようになっていった。

男の傍に立つと、汗と土の臭いに混じって、微かに木の香りがした。それは地面に凛と立っている木の匂いではなく、鋸で木を切った時の匂いだった。大工さんだ、と政樹は思った。その頬には、まだ乾ききらぬ感動の涙が薄く線を引いていた。

「泣いているじゃねえか。怖がるくらいなら最初から上るんじゃねえ。」

政樹には分からなかった。何であんな綺麗な景色を見たというだけで、叱られなければならないのだろう。大体涙を流したのは怖かったからではない。

政樹は、大人が自分勝手に物事を決めつける、不快な存在だと思った。折角流した感動の涙を地に叩き付け泥まみれにする、厭らしい存在だと思った。しかしそれは大人が子供を心配する心を解さぬ、子供のエゴである。大工のような、生業として狭い足場の上にいつもいるような人間は、高い場所に上ったときの地に足をつけていない怖さというものを十分に知っているのである。だからただ子供の安全を思い、政樹の行動を注意したのである。

しかしそのような「大人の都合」が政樹に分かろう筈もなかった。政樹の胸中に今まで感じた事のないような、欲しいものを得られなくて泣くような単なるだだっ子の我侭とは決定的に性質の違っている、大人に対しての強烈な不信感がふつふつと湧き上がってきた。この時、感動で心を満たす事と現実世界での有様は両立しないものであるという、政樹の人生をがんがら締めに縛り上げる強靭な蔓草の根が、芽生えてしまったのである。

政樹の心の中には、何時までもあの雲のオーロラの風景が、壮麗な額縁に入れられて飾ってある。しかしその額縁は常に、政樹が大人になってからでさえ、時として毒液を滲み出す蔓草に絡まれて、その美を損なっているのである。

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