『窓雪』祥子にとって、職員室から二年三組の教室までは、このような寒さの中では長い道程だった。 何十年にもわたって多くの子供達を受け入れてきた校舎だから、屋外の寒さは全てそのまま廊下に運ばれてきてしまう。祥子が教鞭を取るこの学校は年々生徒の数が減っており、昨今では別の小学校との合併の話も出てきている。だから全館暖房などといった贅沢なものは、今更望むべく筈もない。 大学を卒業して教職についてから、今年で四年目である。その間、この学校の生徒数はずっと減る一方だった。出席簿を開く度に、それを実感させられる。だから胸に抱えた出席簿を持つ手には、無意識に力がこもってしまうのだった。 しかし二年三組の教室の扉を開けると、冷たい廊下に流れ出す子供達の喧騒と熱気が、祥子をいつものように温かく迎えてくれた。 入り口横にある石油ストーブの覗き窓には、柿色の炎がちろちろと身をくねらせている。しかし室内の温かさは、老朽化した石油ストーブの功績というよりも、はしゃぎ回る子供達の熱気に寄るところが大きいようである。机の上に置かれている様々な色のリュックサック以上に行儀良く自分の席についている子供など、一人も居はしない。まだ小学校二年生の子供達だ。行儀良く椅子に座っていることなど出来る筈もない。何せ、外には雪が降っているのだ。 真白に曇った窓には、誰かが指で描いた雪だるまが泣いていた。 祥子は腰の辺りに纏わりついてくる子供達を適当にあしらうと、いつものように教壇についた。そして子供達が遊ぶ様をぼんやりと眺めた。 今日は社会科見学で市の中央郵便局に行き、日常の郵便業務を子供達に体験させる予定になっている。今はその出発前、時間待ちをしているのである。子供達がはしゃいでいるのは、いつもの授業とは雰囲気が違うからだ。楽しそうな子供達を見るのは楽しいが、祥子は自分の教員としての職務を思い出すと、少々の憂鬱を感じざるを得なかった。 教室内で行う授業と違って、遠足や社会科見学は教員にとっては面倒臭いものだ。授業であれば生徒達の行動は全て把握出来るし、壁で囲まれた一定の範囲に気を配っていればそれで良い。しかし、社会科見学や遠足となると、それでは済まなくなる。出発から到着までの一糸乱れのない統率など、祥子が受け持つ小学校二年生の子供達にとっては至難の業だ。電車の中などでは、一般の人達への迷惑も絶えず気にしていなければならない。子供達がはしゃいでいる分だけ、実のところ教員の負担も大きくなるのだ。 しかも、今日の社会科見学は雪が降っている中を決行するのである。今朝起きた時に雪が降っていたから、見学は中止するのかと思っていたが、そうではなかった。決行の理由は、今日を逃せば郵便局に見学依頼を申し込み、社会科見学の日程を組む事が出来なくなるから、というものであった。 その理由の是非はともかく、珍しく雪が降ったというだけでおおはしゃぎしている子供達が、雪の中を行儀良く一列になって歩いてくれるなどということが、ある筈もないだろう。中央郵便局はわりと近いところにあるとは言うものの、子供達を誘導する教師の苦労は並大抵のことではない。 祥子自身も、子供の頃は遠足や社会科見学が好きだった。自分がこの子達の年齢だった頃を思い出すと、遠足などの当日は、元気一杯むやみにはしゃいでいた記憶がある。矢張り日常と違った雰囲気というのは、子供達にとっては多いに楽しむべきものなのだ。否、大人達にとってさえ、時にはそうなのだろう。 しかし、自分が教員になってみて初めて、大勢の人間を統率する、ということの大変さが分かった。まして祥子が受け持っているのは、分別もあり物事の是非も分かっている大人ではなく、自分自身のことだけで手一杯の小学校二年生である。 しかしそれでも、子供達が楽しんでくれれば祥子はとても嬉しい。子供達が楽しそうにしている様子を見ると、少々の苦労は致し方ないという気がする。小学校の教員になったのも、子供達のことが好きだったからなのだ。…… 「せんせい、裕太君が。」手に持った出席簿を玩びながら、一人思いに耽っていた祥子のセーターを、誰かが引っ張った。 「…裕太君…?」 考え事を止めた祥子が声の方を見ると、一人の女の子が立っていた。 女の子――名前は恵美ちゃん――は教室の後ろの方を指差していた。その先では窓がひとつ開いていて、男の子が身を乗り出すようにして外を見ていた。 祥子は驚きのあまりに、息が詰まった。この教室は、二階にある。未だ十分に発育しきっていない子供達だから、窓から落ちたら本当に生命に拘わる事になりうる。祥子は慌てて椅子から立ちあがると、窓の方へ駆け寄った。 窓から身を乗り出している裕太を抱きかかえようとして、祥子は自分が出席簿を持ったままである事に気付いた。窓脇の棚の上に出席簿を置くと、祥子は裕太を教室内に引き戻した。 抱きかかえられた子供――裕太は言った。 「せんせい、まどからしたを見ると、学校が空にうきあがっていくような気がするんだよ。」 祥子は、安心してほっと胸を撫で下ろした。 「ふうん、そうなの。でも、落ちたら危ないでしょ。怪我しちゃうわよ。」 そう注意すると、祥子は窓を閉めた。 裕太は不満そうだったが、窓から身を乗り出してはいけないと祥子が日頃から注意していた事をすぐに思い出して、結局は素直に従った。 やがて、出発時間が来た。祥子は子供達に荷物を持たせ整列させると、行儀良く教室内から送り出し、列を乱しがちな子供達を一階の下駄箱まで苦労して誘導した。子供達はそれぞれにお喋りをしながら長靴に履き替えている。 その時祥子は、教室に出席簿を忘れた事に気付いた。生徒達に忘れ物はないかどうか注意していた自分自身が、忘れ物をしてしまったのだ。祥子は内心赤面の思いで、同僚の先生に子供達の面倒を少しの間見ていてくれるように頼み込むと、急いで階段を駆け上がって教室に戻った。 祥子は教室の扉を開けた。先程までの喧騒は嘘のようだった。電気の消えた教室は空虚な雰囲気に満ち、室温のわりにただ寒々とした薄暗い空気が静かに澱んでいる。窓の外で降り積もる雪が、あたかも窓硝子それ自体が発光しているかのように、淡い光を投げかけている。 出席簿は、教壇の上ではなく、先程裕太が身を乗り出していた窓のところにあった。祥子は出席簿を手に取った。 ふと見ると、裕太が身を乗り出していた曇り硝子の窓には、指で絵が描いてあった。真直ぐな横棒の上に少し離れて描かれている歪な凸方の図形。その中心には小さな円が描かれている。 最初のうちはそれが何を描いたものか少しも判らなかったが、祥子はふと、それは裕太が言っていた、校舎が空に浮き上がっている絵ではないかと気が付いた。 窓の外では、相変らず雪は降り続いている。真白な小麦粉を篩にかけるように、音も無く地面に降り注いでいる。 祥子は窓を開けた。吹き込んできた冷気に、一瞬身がすくんだ。薄暗い教室に誰もいないことを確かめるように周りを見まわしてから、祥子は窓から身を乗り出してみた。 地面を見下ろすと、学校は本当に空に向かって浮き上がっていくように見えた。
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