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『黄色いカーテン』

冬も間近になる季節、木々はその色を黙々と生命力を主張する翠葉から、日毎に愁味を静かに拡散させてゆく黄や紅に変えていた。

この頃には武蔵野を横切って流れる玉川上水の並木は、一見とりどりに彩られながらもその実は寂しげで、色彩豊かな天蓋も寂しげな雰囲気を抱き込んでいる。

土の匂いの立ちこめる中を、遊歩道沿いの並木は天を支える柱のように直立している。木の葉が色鮮やかに重なり合い黄葉の傘を頭上に広げているから、細い光線となって射し込んで来る木漏れ日は淡い木の葉色に染色され、樹間を飛び廻る雀は鳴き声のみで姿は定かには見えず、傍若無人の影絵のように飛び回る鴉が川沿いの小さな林の静寂に色を添えている。半世紀ほど前にはこの川で入水をした文豪がいたが、今や川面を覗き込めば申し訳程度の僅かな流れしか目に入らない、弱々しいものでしかない。しかしこの季節においては、滔滔と水を湛えた流れよりも、静かに吹きぬけてゆく風が落葉の海原を揺らし波をたてる音と共に、時間の停滞したような空気を貫いて微かに流れゆく水音の、細々とした静かな生命力を持った流れの方が好い。

厳寒の季節に備えて木々は、秋の間に梢の木の葉を全てそぎ落とす。ただ幹一筋となって冬を乗り越えようとする樹上からはらはらと落ちてゆく木の葉は、全て鮮やかな色に染まっている。まるで華やかなものは全て厳しい季節の前には堕ちてゆかなければならないと告げている。

恋人の細布子(ゆうこ)と連れ立って歩いていた政樹は、そう思った。

幼い頃の二人は、同じ小学校に通っていた同級生だった。割と仲の良い友達同士でいたのだが、細布子は親の仕事の関係で途中で転校してしまい、それ以来全く会わないでお互いの人生を過ごしてきたのだ。

しかし政樹が大学時代に一人で箱根に旅行に行った時、旅先で全くの偶然に細布子と再開した。もちろん、小学校以来全く会っていない人間がお互いの顔を見ただけでそれと解る筈もなかった。たまたま細布子が運転免許証入りの定期入れを落とし、それを政樹が拾って届けた時に気付いたのである。

以来二人は恋人として付き合ってきた。それからもう五年にもなる。政樹は大学を卒業すると証券会社に就職し、細布子は学習塾の非常勤講師としてそれぞれの人生を歩んでいた。

もし結婚するならこの人だ――何時しか政樹も細布子もお互いにそう思うようになっていった。

しかし、政樹が折を見てプロポーズをしようと思っていた矢先に――政樹の会社が倒産してしまった。

半年ほど前の五月の事だった。それは当然やって来た。経済が停滞し、不況不況と騒がれる中で、自分の会社が無くなってしまうという事を聞いた政樹は呆然自失した。

割と大きな会社だったから新聞でも大々的に取り上げられ、会社の玄関の前には連日の様に報道陣が、少しでも多くの社員のインタビューをフィルムに収めようと詰め掛けていた。

政樹はまるで包囲された落武者に向けられる刃のように林立するマイクとカメラの間を、自分が犯罪人であるかのような気持ちで小走りに走り抜けた。「何か一言」という台詞が一歩を進める度に耳に入ってきたが、立ち止まって口を開けば、言葉より先に涙が出てきてしまいそうだったから、真一文字に口を引き結び、まるで何も聞こえなかったかのように、突き出されるマイクを掻き分け玄関をくぐった。

臨時に行われた社員総会では、普段は殆ど顔も見る事もないような経営のトップの人間達が、涙を流しながら謝っていた。悔しかった。本当に悔しかった。政樹は顔も殆ど知らない人間達に、自分が夢描いていた未来の展望を粉々に打ち砕かれてしまったのである。

それから半年経った今でも、再就職先はまだ決まっていなかった。毎日のように再就職活動をしていたが、何処も雇ってくれるところは無かった。また仮令働くことが決まったとしても、それまでよりも低い水準の生活しか望めないであろう事は目に見えていた。

政樹は自分の人生に対しての自信を急速に失っていった。

――このまま細布子と結婚をしても、あるいは婚約をしたとしても、細布子を幸せにしてやる事は出来ないだろう。自分一人で生活していく事さえも危くなってしまったのだから。

政樹の心の中で、「結婚しよう」というプロポーズの言葉は急速に薄れて消えていった。代わりに「別れよう」という決別の言葉が、台風のように政樹の心の中を掻き乱し始めたのである。

十一月も半ばを過ぎたある日、政樹は意を決して細布子をデートに誘った。

政樹が細布子と連れ立って玉川上水を歩いていたのは、別れ話を切り出す為だったのだ。

生命力を湛えた幹から全てのものが還元される地面へと落ちた木の葉は重なり合って、地を這う生命に踏みつけられる絨毯となってしばしの間、果てしなく敷き詰められる。稀に人の手によって、一際鮮やかに染まった一葉の木の葉が拾い上げられ、栞(しおり)として本の間に挟まれるくらいが精々である。その他のものは――生まれてきたときと同じように土に還るか、もしくは――人間の手によって掃き集められ、焼かれて一筋の煙を残して灰となるのである。

二人はいつものように軽く腕を組んで、ゆっくりと玉川上水沿いを歩いていった。待ち合わせの場所で二人が出会ってから、もう四時間近くが経とうとしていた。

政樹は「別れよう」の言葉が中々言い出せずにいた。

政樹は、何回も二人で歩いたこの玉川上水を歩いて行くうちに、きっと細布子にその言葉を言おうと決心した。若しかしたら別れなくても済むのかもしれない、やはり心の何処かではそう思っていたが、しかし一旦「別れよう」の言葉が心に浮かんできたからには、それは容易に掻き消せるものでは無いのだ。今日政樹の方から細布子をデートに誘ったのも、その一言を言うのが目的なのである。敢えて玉川上水の中で言おうと決めたのは、別れよう、という言葉を発する一線を何時までも越えられずにいる自分の心の迷いを振り払うためでもあった。

歩いているうちに政樹は、もう既に結婚が決まってしまった相手に対するかのような口ぶりで自分が細布子に対して話しかけている事に気が付いた。

それは、今まで二人で築き上げてきた時間を終わらせようと決意した政樹に、自身の深層心理が贈った最後のプレゼントなのかもしれなかった。まるで築き上げてきた時間を丁寧に梱包して、リボンをかけて綺麗な状態にしておこうとでもするかのように。

細布子もまた、その事に気付いた。会社が倒産してからも二人は何回もデートをしていたが、政樹の話し方や表情は二人が会う回数を重ねる毎に段々力無く、暗くなっていった。

しかし今日に限って政樹は饒舌なのだ。何かがおかしかった。

細布子は政樹の会社が倒産した事を知ってから、この半年というものそのことで必要以上に気を使ってしまっていた。今となってはもう、その積み重ねがお互いに徒となっていったようにしか思えない。二人が時折互いに交わす言葉は全て、張り詰められた氷の表面を滑って行くように、表面だけをなぞって消えていってしまっていたのである。

言い出せないでいる言葉を何時までも抱えている政樹と、不自然に饒舌で視線が上滑りしがちの政樹の態度に気付いてしまった細布子の二人共が、次第に無口になっていった。

静かな空気で包み込まれるように覆われた上水沿いの遊歩道の所々には、掃き集められた落ち葉が紅を黄と茶をとりどりに織り成した小さな山を作っていた。そのうちの幾つかからは、土の水分を吸ってほんのりと湿った重なり合った落ち葉の小山を燻して一筋の煙が立上り、ぱちぱちと小さな音を立てて枯れ枝が爆ぜる音を静かに運ぶ微風に、ふと思い出したかのようにその身をくねらせていた。

そのような静かな空気を無遠慮に押し分け、背後から聞こえてきたパタパタという小さな足音が二人を追い越して行った。それは幼稚園くらいの、小さな女の子と男の子との二人連れだった。兄妹か、或いは幼稚園の友達か。定かには分からぬが、二人小さな手を繋いで懸命に走って行くその姿を見て、政樹と細布子は無意識に自分達の姿を重ね合わせた。

小さな二人は政樹と細布子を追い越して行ってからもまだ大分走っていたが、二十メートルほど先で急に立ち止まった。

政樹の腰にも届かないほどの小さな身体に、それぞれ真赤なコートと紺色のコートを可愛らしく着込んだ子供達二人の前には、掃き集められた落ち葉の山があった。まだ煙は上がっておらず、どうやらこれから燃やされるところのようだった。

子供達二人はしゃがみ込むと、落ち葉の山に両手を差し込んだ。そして歓声をあげながら、両手一杯に掬い取った落ち葉を、まるで宝物を空に向かって差し上げるように高く掲げ、空に向かって振り撒き始めた。

それは悪意のある悪戯という訳ではなさそうだった。子供達は、何故それ程一生懸命になれるのだろうと訝るくらいに懸命に、しかし心から楽しそうに落ち葉を振り撒いた。両手で持ち切れないほどに落ち葉を掬い上げ、それを両手と背筋を一杯に伸ばして勢い良く空に向かって放り上げる。

殆ど政樹の掌の半分の大きさしかないような小さな手で掬われ、空中に振り撒かれる一枚一枚の木の葉は、その小さな掌よりももっと小さかった。そして二人の子供の手で振り撒かれる木の葉が形作ったのは、空中に揺らめく紅と黄色のカーテンだった。一葉一葉が空気の抵抗に翻弄されてひらひらと、互いに交差し、絡み合い、重なり合いながらさながら一枚の布地を空中に織り成し、その場所だけ時の流れが緩やかに流れて行くようにまた足元へと、ゆっくり降り積もっていった。

政樹と細布子は立ち止まって、その様子をしばらく眺めていた。政樹は自分たち二人と、楽しそうに落ち葉を振り撒いている子供達二人とのあまりの大きな落差に深く考え込んでしまった。

自分は先の見えなくなった将来の事を思い悩み、あまつさえこれまで築き上げてきた細布子との五年間という歳月をも放棄しようとしている。不安でたまらないのだ。しかし、あの子供達二人はどうであろう。誰かが折角掃き集めた落ち葉を空中に向かって振り撒いて、矢鱈と面白がっている。そんな何も意味の無い事を一生懸命にやって何が楽しいのだろう。何も分かっていない。無邪気だ。政樹はその無邪気さに嫉妬した。

恐らくは、それが大人と子供の差なのだろう。子供のうちは自分が他人に迷惑をかける事など考えもせずに、ただ純粋に自分の行動を楽しむ。しかし、それはまた自分の事しか見えていないという事でもあるのだ。

「ねえ。」

政樹の腕に細布子が手を置いた。

「私達も入りましょうよ。」

政樹は細布子の意外な提案に唖然とした。僕は子供ではない――大人なのだ。何故 あのようなたかが子供達の遊びにわざわざ参加しなければならないのだ。

「そんな恥ずかしい――僕は遠慮するよ。」

「でも私は入ってくるわね。」

そう言い残すと細布子は、小さな二人が一生懸命に振りまく落ち葉のカーテンの中に入っていった。

子供達は一瞬自分たちよりももっと年上の女の人がやって来た事に驚いている様子だった。しかしすぐさま今までやっていたようにまた、足元に積もっている銀杏やら紅葉の葉っぱやらをを手ですくっては空に振り撒き始めた。

もちろん、細布子も一緒に。

政樹は半ばあきれ返っていた。幼稚園児ではあるあるまいし、一体全体何故落ち葉を振り撒いたりしたいのだろう。しかし内心、細布子との気まずい沈黙が破られたのには少々ほっとしていた。

――僕達は本当に終わってしまうのか。

政樹は嬉しそうに子供と一緒になって笑顔で落ち葉を振り撒いている細布子を見て、ふと考えた。

――僕にはもう、細布子と一緒に暮して行けるほどの安定した生活は望めないのだから。

別れる、という言葉の重大さが、急に政樹の心を掻き乱した。

「あれまあ。」

脇から声がするので、政樹は少々驚いて声のする方を見た。それは小柄なお婆さんだった。

「せっかく掃き集めたのにねえ。」

政樹は赤面した。

「すみません、すぐに止めさせます。」

「良いんですよ。」老婆は優しく言った。

「あんなに楽しそうにしてるのだから、邪魔したら可哀想でしょう。散った落ち葉は掃き集めれば元に戻るけど、あの子達が過ごしている今という楽しい時間は決して戻っては来ないのだから。無邪気さはそれ自体が宝物なのよ。そのままにしておいてあげましょう。散った落ち葉はまた掃き集めれば良いのですから。」

政樹はお婆さんの言葉に、胸を突かれたような気分になった。

――僕は何時から無邪気ではいられなくなったんだろう。

政樹は、子供達と一緒になって無邪気に黄色いカーテンを嬉しそうに振り撒き、それを誰にも邪魔されないでいられる細布子が急に羨ましくなった。

――今、僕達二人が一緒の将来を見つめていく為に必要なのは、鹿爪らしい表情で悩み苦しむことではなく、心から笑う事なのかもしれない。きっと、細布子はその事を知っているのだ。

先程までのような表面を滑って行くような表情ではない、心から楽しそうにしている細布子の笑顔が、政樹の心を突き刺した。

政樹は無意識のうちに、一歩また一歩と降りしきる黄色のカーテンの方へと足を踏み出していった。その様子を眺めながら、お婆さんはまるで孫を見ているかのような優しい笑顔をずっと崩さなかった。

だがその笑顔を背中で受け止めざるをえなかった政樹には、お婆さんの優しい笑顔が見守っていてくれている事には気付くことは出来なかった。

しかし――。

あのカーテンの向こうには、細布子の笑顔が――政樹を待っているのだ。

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