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『代償』

月が輝いている道を、一緒に歩いていたはずの、左腕にかかる君の温もり、たとえ仕事で疲れていても、そうやって二人だけで歩いた道を、今はたったひとり、何でこんなふうに、たったひとりでいるのだろう。

たったひとりでの食事、二人のために買ったテーブル、誰も座っていない椅子、料理の向こうには、誰もいない椅子、君のいない空間、音楽で空気をふるわせてもごまかしきれない、君がいない部屋、たったひとりの部屋、これならまるで、帰ってくる必要もない部屋、思い出す会話、笑いのさざ波、微笑み、君の微笑み、輝く瞳、全ては心の中にだけ、残っている君の全て、今はまだ、受け入れられるはずもない、いったい何で、何でこんなふうに、僕はただ、もうふるえない空気を見つめて、たったひとりでいるのだろう。

眠れたのは昔のこと、安らげたのは過去のこと、君がいなくなってから、僕の胸の中を、記憶だけが駆け巡って、ぐるぐると回る万華鏡のように、ひとつとして同じ形のない君の記憶、こんなにもたくさん、何でこんなにもたくさんのものを、僕は失ってしまうなんて、まるで信じられない、君がそばにいたときは、何であんなに毎日が輝いて、色んなことがあって、いまはただ、毎日毎日、僕は心の中で、君の姿を数えているだけ、君の声に耳を澄ませるだけ、まるでまた、君がその扉から入ってくるような、きらきらとたくさん輝くような、毎日がまたはじまるような、そんな予感にただ、それでも、本当はそれは予感ではなくて、ただの思い出で、それをこうやって数えている真夜中、これがたったひとりでいることの、君がいなくなってしまったことの、たぶん代償なんだろう、二人が別れてしまうことの…

灯りに煌めいているグラス、真夜中に一人目が覚めて、細く鳴り続ける電灯の下で、透明なガラスに注ぐ、琥珀色のアルコール、それはもう、ほとんど空になっている瓶、君がいた頃は、あんまり減らなかったのに、君が止めるから、飲み過ぎたりはしなかったのに、もうこんなに減ってしまった琥珀色、時の流れのつまった琥珀、胸の中の走馬灯は、ただこうしなければ止まらないから、味わうことなんかしたくない、ただ酔っていたいだけ、胸がかき乱されるから、酔っぱらってしまいたいだけ、夜に安らげないのなら、何もかも、せめて忘れるために、酒で胸を焼き付かせたいだけ、ただそのために、一息に、グラスを傾けてみても、こんなことしたら、君がいたら、きっと眉をひそめるだろうな、君がいたら、きっと、こんな飲み方はしないんだろうな…。

突然鳴った電話、虚ろな瞳を破られて、思わず駆け寄った電話、手に取ろうとする受話器、それでも、なぜかそこで止まってしまう右手、もしかしたら、本当にもしかしたら、それは君からの電話で、まだ眠れないのよって、そう言うんじゃないかって、本当に馬鹿げた予感、それでも、きっとそうはならないことは、心のどこかで知っていて、いつだってわかっていて、それはただの夢みたいなもので、それはまるで記憶のいたずらみたいなもので、信じるのは馬鹿馬鹿しいおとぎ話みたいなもので、それでも、破られたくないのが夢、現実なんか見たくないから見るのが夢、けたたましくなる電話の、もしこの受話器を取ってしまったら、きっと破られてしまう夢、傍若無人な誰かの声、僕が今聞きたいのは、ただ一人君の声だけだというのに。

僕と過ごした時間を、もしかしたら君は、取り戻したいと思っているのだろうか、やり直すことができるかもしれないって、そんなふうに思っているのだろうか、そんなことが、できるはずがない、まさか取り戻すなんて、そんなことがかなうはずがない、そんなふうに、そんなふうに思っているのは、本当は君ではなくて、僕はただ、自分に言い聞かせるのが切ないから、君が目の前にいる気分になって、まるで君に語りかけるように、そんなことできるはずがないんだよって、ふたりはもうおわってしまったんだよって。

すり抜けて行ってしまった大切なもの、支えきれなかったもの、どうにかなってしまいそうな、後悔の念に悩まされる夜、もう別れようなんて、何であんな言葉が、あんな冷たい言葉が、この僕の口から、何で出てしまったのか、こんなに苦しむなんて、思わなかったからだろうか、別れに払った代償は、形なんかなかったけれど、多分それは楽しかったものの全てで、他の誰にも取り戻せないもので、こんな静かな夜には、ただ君の記憶が、僕の胸の中をぐるぐると、まるで君だけが楽しそうに、いつまでも駆け巡るんだよ。

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