『土』みんなが足早に通り過ぎてゆく。 私はそれをガラスという防護壁の中から眺め、できるだけ人の流れが途切れたときにそこを出て、どこにも焦点を合わせることなくただ無感動に歩いて行くだけの、みんなおんなじ歩き方の、そういった人波の流れにはできるだけ交わらないようにして、ゆっくりと土を踏みしめて歩いて行く。 ひっそりとしたシャッターの向こう、今は開いていない店の中にだって、たとえそれがまだ眠りについている時間のままの空間だったとしても、そこには日常という時間がゆっくりと流れているはずなのに、人波のスピードはその流れを黙殺するから、まるでそれは、「時代」という名に相応しくないかのように使い捨てられてゆく。人は一見止まってしまっているような空間を欲しながらも、それは停車場のようにせわしなく、ひっきりなしに忙しく出たり入ったりするもので、多くの人は決してそこに留まろうとはしない。たぶんそういった空間は、利用されることでその存在意義をかろうじて保っていられるのだ。 人波は自分たちだけが時代の渦中にいると思い込んでいる。人波に乗らないことは基本的に時代遅れで、それは恥ずかしいことだと声高に喧伝し、生活と日常という、同じことを繰り返してゆく重さから逃げ、華やかに渦に巻かれてぐるぐると廻っているだけなのに、それで自分はダンスを踊っている気になって、そうやって激しく残酷に時代に翻弄された後には、ただぐったりとその流れに身を任せるだけになって、でもそうやっていれば、自分が動かなくてもみんなに合わせて進んでいられるから、進んでいるつもりになれるから、そうやってぐるぐるとただ廻っているだけの方が楽になってしまって、社会のルールという枠の中からはみ出さないように努力を重ね、そのうち自分の足で歩いて行くことを忘れてしまう。 人間といういびつな形をいくつもいくつも組み合わせて、そもそも正円のような社会を保つことは至難の業で、どこかに必ず穴はあいているし、ぶつかることもあるし、それが当たり前なのに、社交辞令と節度を上手にめっきすることで滑らかになったつもりになって、あらかじめ決められている色と形の階段を上り、それを自己実現と勝手に名付け、ただ与えられただけの色と形を個性と呼び、貧弱な思考を思想という看板で飾り、渦に身を巻かれることを流行と呼び、そうやってそうやって普通という幻想を保ちながら、ただぐるぐると、ぐるぐると廻り、めっきの施された自分の人生の滑らかさを、お互いに競い合ってゆくようになる。 だから私はひっそりとしたガラスの防護壁から外に出て、でこぼこの土を踏みしめて歩きたくなってしまう。 2005年04月21日
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